PEACH BOY

序章
遥か昔の話で御座いますよ。
皺に貌を埋め込んだ男はそう云って語りだす。

昔。
それは時代に名すら与えられていない頃、人は土よりの恵みに生き、夜闇の深さに怯えていた現世とは異なる世。
富める者は傲慢な春に喜び、貧しき者は不条理な冬に嘆いていた。
都が盛れば、村は枯れる。枯れた村で生き永らえるのは難しい。若い働き手があるのならばまだしも、年老いた夫婦二人での暮らしは一層困難を極めた。村の外れに居を構え、村の誰よりも早くに起き出した老夫婦は昨朝と同じように仕事の前の朝陽を拝む。昨今、理不尽なまでに年貢を貪る支配者に因って火を焚く柴を刈る余力も、汚れた衣を洗う寸暇もなくした村の若衆に代わり、彼等老夫婦が柴を刈り衣を洗っている。
そうする事で彼等は日々の糧を得ていた。
翁は意に反して萎える膝に力を込め裏山へ柴刈りに、媼は乾涸びた細腕に村衆の衣を持ち川へ洗濯に向かった。

物語は此処から綻び始める。

川で媼が一心不乱に衣を洗っている。川中で髪振り乱し乳放りだし痩せ細った手足振り回し洗う姿は斯くも荒神のランバダの如し。時折発せられる奇声は悦びの為か、死に瀕する為か。そんな媼目指して川上より流れ出る物あり。
桃である。それはそれは巨大な桃である。巨大な桃はどンぶられどンぶられと川を下る。媼は桃に気付く事なく洗濯を続けている。そうなると当然、衝突する訳である。
ひ、轢き逃げや。
巨大な桃の衝撃でぶっ飛ばされた媼はそう叫ぼうかと思ったのだが、桃はその場に留まっており、轢き逃げてはいないので叫ぶ事はしなかった。
そう、桃は留まっている。最早川の流れなど眼中に無し、おいらを拾いやがれと云わんばかり。
あれ、桃かい。
流石はランバダババァ、桃の大きさなど気にかける程の物ではないらしい。此処に居たのが村人E(相方は大竹)なら「でけぇよ!」と激しく突っ込まれていたに違いない。村人F(太田とコンビ)なら「でけぇな!」だと思われる。
媼は掛け声一つ、桃を川岸へと上げた。桃の重量等を考えてはいけない。
媼の踊りは一層激しさを増した。早めに帰って一人で桃を食す気だ。
媼は踊り続ける。

媼が、家と呼ぶには少々辛い住処に着いた時、翁は既に戻っていた。無論、黄金色に輝く竹に埋もれていた赤子の土産などは持たず。媼は桃と衣を担いだ侭小さく舌打ちし、お早いお帰りでと微笑う。欠けた湯呑みに白湯を注ぎ足した翁は媼に一切視線を向けず、その大きな桃色は何かねと問うた。
桃ですよ、桃。
「見りゃ解んだろうがよ、この耄碌ジジイが」とは口ではなく目で呟いた。
これは又、非常識な桃で。
「てめぇには大きさの概念ってモンがねぇのか、このイカレ婆ァ」とは口中だけでもごもご呟いた。
切りますか、そうしようか、と極普通に交わされた老夫婦の会話には、
「俺様が拾って来た桃をてめぇに分けてやる義理なんざなかったんだよ、コンチクショウ」
「この化け桃喰う気かよ、意地汚ねぇにも程があらぁ。化け婆ァが化け桃喰ったら共喰いじゃねぇか」
と云う裏があったりする。みんな貧乏が悪いんだ。
じゃあお爺さん、と翁にすこぶる切れなさそうな包丁が手渡された。
「おら、てめえが切るんだよ」
媼が声に出した言葉は、お願いしますねお爺さん、である。
「俺かよ、俺が切るのかよ。冗談じゃねえ。てめぇが喰うんなら手前で切れってんだ。どうせ分ける気なんて無ぇ癖によ。未知の生命体なんぞが出て来たらどうするんだよ、第一犠牲者は俺じゃねえか。そうか、てめぇ俺が喰われてるスキに逃げる気か。ああ、お前はそう云う女だよ、昔ッからな」
翁は実際、うむと唸っただけである。男なんてそんなモンである。そろそろと巨大桃へ近付き、そ、と触れてみた。掌で桃の産毛がさわと戦ぐ。耳を近づけてみたが鼓動や息遣い等は聞こえない。襲われる事はなさそうだ。一つ息を吸って、翁は上段に構えた。一気に振り下ろす。
ぽっくり。
間抜けな擬音語を発して二つに割れた桃には果肉など詰まってはおらず、真ん中に玉のような男の嬰児がちょんと座していた。
未知の生命体が出た。
縦真っ二つに叩き割ったにも関わらず嬰児は傷一つ負っていない。
まさにエイリアン。
悲鳴でもあげようかと翁が悩んでいる処へ背後から声がした。
「喰っちまおうぜ」
眉根を寄せて振り向いた翁は何の感情も表していない媼の貌を見た。
「桃だろ? 喰おうぜ」
媼は桃の内に座る嬰児を指差す。貌は矢張り素である。にやりと不敵に笑ってくれた方がマシだったなと翁は思う。どんな姿形をしていても桃は桃だ、と媼が一歩前へ踏み出す。嬰児は身の危険を察したのか、激しく泣き出した。
「おい、桃汁だ。桃汁が出てるぞ。汁が出切る前に喰わねぇと肉がかすかすになっちまう」
翁から包丁を奪い、媼は嬰児を刻もうとする。流石に人食いはやばいだろと翁が止めに入った。暫く争って、幾日か様子を見た後、桃の中に戻って海を目指して頂こうと云う結論に達した。
達したが、桃から出て来た未知の生命体は驚くべき速さで成長し、さて捨てようかと思った時には既に少年であった。少年の容貌がどんなに見目麗しかろうと翁にとってはエイリアン以外の何者でもなかったが、若い働き手は有難かった。媼が少年の容姿にころりと掌を返したのは云うまでもない。二人は少年をモモタロヲと名付けた。安直すぎる。翁は少年をタロヲと呼んだ。桃の意味がない。媼は桃殿と呼んでいる。翁はその呼び名に恐怖した。恐怖のあまり吐き気すら催す。何度か吐いた。その所為か最近痩せた。血色も悪い。死期が近そうだ。媼の血色は逆にとても良い。前よりはるかに良い。洗濯に向かう足取りも軽い。最早数日前とは別人である。女って怖えなぁ。と翁はつくづく思う。ナリが良けりゃあ地球上の生物でなくてもいいんだよな、と愉しそうにモモタロヲの世話を焼く媼に眼を遣った。
「あれ、桃殿。頬に飯粒が」
筋の浮いた指をモモタロヲの頬へ伸ばす。付いてねぇ、何にも付いてねぇよ、つるとした頬にゃあ、毛穴すら見えねぇよ、と翁は心中ひっそり突っ込みを入れる。すいませんと呟くモモタロヲが不憫で仕方ない。媼が触れた頬の一部から死斑が現れ、そこが膿んで腐り、いずれ全身がぐずぐずと崩れてしまうような気が、翁はした。 掌に憐れみを込めてモモタロヲの背を軽く叩く。モモタロヲが僅かに視線を寄越したので翁は緩く首を左右に振った。もうすぐくたばるからちょいと辛抱してくれなと眼で伝える。モモタロヲは誰にも気付かれないよう、そっと溜息を洩らした。

モモタロヲを家族に加えてから幾月かが過ぎた。数日で少年に成長したのだから何ヶ月も経ったら中年か初老だろうと思いきやところがどっこい。話の都合上少年の侭である。御都合主義万歳。

粗方柴を刈り終え、昼食を摂る為一度帰宅した翁は、欠けた湯のみに注いだ薄い茶を啜りながら食事の支度をする媼の鼻唄を聞かないよう必死で取り留めのない思考を繰り返していた。
作り終えた質素な料理を囲炉裏の側へ置いた媼は、畑仕事をしているモモタロヲを呼ぶべく縁側から庭へと下り、手を少し丸めて口に添える。
「桃様、桃様。そろそろお昼になさいな」
翁は啜っていた茶を吹いた。驚きと恐怖のあまり危うく死にかけた。
様って何だ、様って。このクサレババァ、遂に逝きつくとこまで逝きやがった。気色悪いにも程がある。
翁は噎せつつも心中で悪態を吐く。
もそもそと飯を丹唇に運ぶモモタロヲの顔色は冴えなかった。そりゃそうだ。いつ媼が襲い来るとも知れぬので晩も安心して眠れやしない。育てて貰っておいて何だが、モモタロヲの気力体力もそろそろ限界だ。モモタロヲは少しばかりの飯を胃に納めただけで箸を置いた。
「桃様、もうよろしいの? 遠慮は入りませんよ。もっとお食べなさい、育ち盛りなのだからねぇ」
語尾は下がらずに上がっている。翁は、同棲相手の男が我が子に暴力をふるっているのを知りながらも保身の為見て見ぬふりを続ける母親の苦痛と罪悪感に苛まれていた。
助けてやれぬ老い耄れを許しておくれな、と沢庵を噛み砕く。
「ほら、腕だってこんなに細い」
そう云ってモモタロヲの腕を撫で擦る。僅かに身を固くする事しか出来ないモモタロヲに代わって翁は全身に鳥肌を立ててあげた。大丈夫ですから、と風に揺れる花弁の如きか細い声でモモタロヲは応えた。
「そうかい、ならあたしが食べさせてあげましょうね」
媼独壇場。前後の繋がり完全無視である。媼はモモタロヲの腕を擦りながら、箸で沢庵を掴んで持ち上げ、はい食べて、と首を右斜め四十五度に傾け微笑んだ。翁は口の端から滝のように飯粒を流しながら、川向こうで微笑するお釈迦様を見た。
「大丈夫ですから」
幾分大きめの声で云ってモモタロヲは腕を振り払い畑へと向かった。その背を凝視めていた媼は頬に片手を添え、照れちゃって可愛いわ、と呟いた。
ああ、お釈迦様が手招きしておられる。
翁の瞳孔が開いた侭の眼が、畑で鍬を振るうモモタロヲを捉えた。モモタロヲの側には常に誰かが居る。村の若衆であったり、年寄りであったり、男であったり、女であったり、少年であったり、少女であったり、一人が去れば又別の一人が側へと寄って来る。彼等は其々に異なった視線をモモタロヲに注いでいた。
ありゃあ、大変だわ、と虚ろな頭で翁は考える。俺も若い頃はなぁ、大変だったなぁと思い込みなのか事実なのか、今となっては確かめようもない記憶を持ち出し、激しく同情した。
しかし、中には馴れ馴れしくモモタロヲに触れる者も居ると云うのに、この勘違いババァが嫉妬に狂わないのは何故だろうと翁は媼を盗み見た。
媼の貌は勝ち誇っていた。予想以上に勘違いしていた。
お釈迦様はもう目の前まで迫って来ている。

モモタロヲは鍬を見ていた。其の柄を握る腕は白く細い。少し力を込めて鍬を持ち上げれば薄紅の花が指先に咲く。まるで女の腕だなと云ったのは二日に一度は声を掛けてくる村の青年だ。こんな辺境の村落では女とて白く細い腕を持っている者はそうそういない。稚児くらいの歳から働かねばならず、手足には自ずと肉が付き、肌は陽に焼ける。羨ましいねと女衆はモモタロヲの腕を叩いて行くが、誰も本気で羨んではいないのだとモモタロヲは知っている。腕を叩く彼女達の顔は、焼けた肌と鍛えられた手足に誇りすら持っているように見えた。
手伝ってやろうか。
背後から声がかかる。振り返れば例の二日に一度は声を掛ける青年が笑顔で立っている。いえ、大丈夫とつられた笑顔で応える。
「遠慮すんなって。手伝ってやるよ」
「いいえ、本当に平気ですから」
二日に一度は繰り返される遣り取り。辟易する。初めの頃に一度、断り切れず彼の申し出を受け入れた事がある。非常に危ない目にあった。謝礼を払えと云われ、モモタロヲと書いて華も羨む純情乙女と読むに相応しい彼の人格が崩壊しかねぬ目にあった。其れ以来、奴には近付くなと翁から云われているが、モモタロヲが避けていても向こうから近付いてくる。どうしようもない。
「なあ。そんなヒく事ねえじゃん? 俺なんもしねえって。マジで。マジだって」 嘘臭え。マジを二度云う処からして嘘臭い。しかも若者像がちょっと古かないだろうか。
二日に一度は声を掛けてくる青年はモモタロヲから鍬を奪おうとする。
「や、やめて下さい」
「純粋に手伝ってやるって云ってんの、下心とかないって」
あるな。完璧にある。間違いなくある。其の上絵に描いた様な馬鹿。
「お願いですからやめて」
さっくり、と実に小気味良い音をたてて二日に一度は声を掛けてくる青年の臀部にクナイが刺さった。クナイを投げたのは長身の青年。適当に切られた蒼黒の髪が揺れる。青年が近付き、あべしあべしと泣く二日に一度は声を掛けてくる青年のケツからクナイを抜き、
「退け」
と刺し傷のあるケツを蹴る。
畜生、お前の母ちゃん猪豚、とは去り行く二日に一度は声を掛けてくる青年の捨て台詞である。流石二度と登場しない端役なだけあって捨て台詞も考えるの面倒臭いと云わんばかりの適当さ。
「狗丸さん、あの、有難う御座います」
モモタロヲは頭一つ分程高い位置にある狗丸(忍者ではない)の顔を見上げる。狗丸はヒーローだ。主人公のピンチに登場する奴はヒーローであると相場が決まっている。ピンチになる前に出てくる奴はヒーローではない。ヒーローとは誰かがピンチになるのを待つ者の事を云うのだとか云わないのだとか。先達ての貞操の危機を助けたのも狗丸だと云うのはお約束である。無論、其のお約束に則る所存である。
狗丸は只、何も云わず静かな眼でモモタロヲを見下ろしている。
「狗丸さん?」
あのなぁと狗丸は溜息を吐いた。
「お前ちょっと消極すぎ。云いたい事云うべき事がある時はハッキリシッカリでかい声で云え。抵抗もキッカリバッキリしろ。そりゃ、その細腕だと碌な抵抗出来そうもないけどな、それでもしろ。あらん限りの力でしろ。中途半端にするよりマシだ。中途半端な抵抗は逆効果だってのをいい加減学べ。馬鹿じゃないんだろ。俺だって一々助けてやれる訳じゃないんだからな」
無口でクールだとでも思ったか。
「ご、御免なさい」
「すぐ謝る。それもやめろ。別に何もしてないだろうが。謝っても何にもならねえし。弱い脆いは枷になっても武器にはならねえんだから、もっと強くなれ。否、その前に自我を持て自我を」
「持ってますよ、自我くらい」
「何処に?」
「何処って、え、と。此処?」
モモタロヲは小首を傾げ、掌で薄い胸を抑える。
「へー。ふーん。あー、そう。其処? なる程道理で。そんな薄っぺらな胸にあるんじゃ自我がないように見えても仕方ねえよな」
酷い、とモモタロヲは狗丸を睨む。やだーこわーい、と狗丸は頬に手を当てた。二人でくすくす笑う。二人で笑っている間だけ、さしあたっての問題を忘れていられた。問題とは無論、媼の事である。狗丸は笑みを湛えた侭の口唇をモモタロヲの耳に寄せた。

その晩、翁はモモタロヲに裏山の麓へ呼びだされた。月は満潮に近い。世界は蒼白く揺らめいている。翁は媼が深い眠りに就いているのを確かめ、家を抜け出した。裏山へ続く細い、路とも呼べぬ路を歩く翁は、こんな刻、こんな場処に呼びだして愛の告白か、ジジィにゃちときついぜ、と場の雰囲気をまず和ませるべきか否か、真剣に悩んでいた。
前方に項垂れたモモタロヲの項が見える。細い首に頚骨の陰が落ちている。近付く翁の気配にモモタロヲは首を捻った。皎い膚の上で月の光は揺曳し、ゆるりと振り向いたモモタロヲの眸は妖艶な蒼に濡れていた。人ではないのだと翁は改めて思う。
翁が口を開くより先にごめんなさいとモモタロヲは呟いた。
「こんな夜更けにごめんなさい」
気にするなと翁はもう一歩モモタロヲに寄った。夜の静寂が耳について聞き取り辛かった。翁はモモタロヲの腰を軽く叩き先を促がす。
怖いんです、とモモタロヲは泣いた。
俺も怖えよと慰める。
「恩があるのにこんな事を言って本当に申し訳なく思っています。でも、彼女が怖いんです。彼女の一挙手一投足に怯えてしまうんです。もう耐えられないんです」
「解ってる。気にするな」
顫える背を撫でてやる。
「村を、出るか」
あの色ボケババァから解放してやるには何処か遠くへ、媼の手が届かない場処へ逃がす必要がある。それには村を出てしまうのが最も有効ではないか、翁はそう結論づける。媼を殺すと云う手もあるにはあるが、殺せば途轍もなく性質の悪い霊魂となってモモタロヲにより一層纏わりつき、状況を悪化させるだけのように思った。 「急に出ても大丈夫でしょうか」
モモタロヲの声に硬質な響きが交じっている。その響きで彼が既に村から出る事を決めていたのだと知れた。
翁は頷く。
噂がある。嘘か真か、近頃鬼が出ると云う。鬼は新月の闇に乗じて現れ都を荒らす。物品を奪い、幼子を攫い、眼が合えば殺し、都人を恐怖に怯えさせている。
「鬼、ですか」
「先達て、領主の末娘までもが連れ去られたらしい」
怖いですねとモモタロヲは着物の胸元を握り締めた。
「鬼を討伐しにゆくと云って村を出ろ」
「え?」
「婆ァも村の者もやめておけと止めるだろうが、ゆくのだと云い張れ。ゆかねばならぬと。何も実際、討伐に向かう必要はない。そう云って村を出ればいい。出た後は好きにしな。此処を気に入ってくれているなら婆ァがくたばった頃に戻って来ればいい」
モモタロヲは視線を落とした。
「そうですね」
翁の云うそれは、自分がしようとしている事は、良くしてくれた村の者や媼、延いては翁をも裏切る行為だと恥じ入っているのかも知れない。
「心配するな。幾許かの路銀なら渡してやれる」
「いいえ」
大丈夫ですとモモタロヲは幽かに笑った。
「路銀なら道々稼ぎますから」
君なら幾らでも稼げそうだぞ。そう云って親指を天に衝き立てる気に、翁はなれなかった。
「戻ろう」
「はい」
「夜が明けたら旅支度を整えろな」
モモタロヲは、はいと再度頷く。
月は流れて来た雲に翳って、薄らと輝いていた。

やめなさい、と媼は声を張り上げた。張り上げて囲炉裏の向こうに座したモモタロヲににじり寄る。その際、媼の爪先が囲炉裏に落ちて灰を撒き上げた。舞った灰は、高く昇り陋屋に入り込んでくる陽光の道筋を明らかにする。媼はモモタロヲの襟を鷲掴みにした。
「桃様、あなた。何を馬鹿な事を」
媼の声は更に激しさを増している。幾ら村の外れに居を構えていると云っても小さな村だ。媼の叫び声は村中に響いているだろう。その証拠にわらわらと村人が集まってきた。
「如何したってんだよ」
縁側から家中を覗き込み、声を掛けてきたのは村人A(フウテン男)だ。Aの側ではB(婆・キャンギャル)やC(村長・若ハゲ)やD(自称乙女♂)や――略――Z(子供に落書きされた眉毛が一向に消えない犬)が剥き出しの好奇心を隠そうともせず様子を窺っている。
「否、何でもない。気にしないでくれ」
媼は誤魔化そうとする翁の首に後ろからクロスチョップを食らわし、この子が鬼退治に行くとか云うんだよ、と悲痛な声で喚いた。
「止めとくれ。誰か止めとくれよ」
泣き喚く媼に代わり、村長(若ハゲ)がモモタロヲの前に座した。
「モモさんよ、何だって急に鬼退治なんざ思い付いちまったってんだ?」
「急に、ではありません」
モモタロヲは視線を床に這わせた侭、呟く。
「じゃあ何かい。ずっと行こうと思ってたってぇのかい?」
「行く必要が、あるんです」
云って、モモタロヲは眼を閉じる。モモタロヲが見るのを拒んだ世界ではクロスチョップから甦った翁と、泣きじゃくる媼が熾烈な闘いを繰り広げていた。
「必要って云ったってよ、モモさん」
「僕は、行かないと」
翁の左ストレートが媼の人中にクリーンヒット。媼の顔で血が舞い踊る。
「行くったってよ、アンタのその腕で何が出来るってんだい」
「でも、それでも、僕は」
後方に倒れた頭を建て直し、すかさず媼が飛び膝蹴りを放つ。
「止めときな、悪い事は云わねぇっからさ」
「駄目、駄目なんです、御免なさい」
顎を狙う媼の膝を寸前で躱し、翁は体を捻った。翁の後ろ廻し蹴りが炸裂。
「何でモモさんが行かなきゃなんねぇのか、その理由を教えとっくれよ」
「それは、その、云えません」
身を屈めて蹴りを躱した媼のキドニーブローが翁にメガヒット。
「理由ぐらいいいじゃねえか、教えとっくれてもよ」
「――すみません、云えません。でも」
体を折り曲げ呻きながらも翁、媼に頭突きを贈呈。翁の額にぶちのめされた媼の鼻は盛大に鮮血を撒き散らした。
「でも、僕は」
「どうしても行くってえんだな」
「はい」
モモタロヲは村長(若ハゲ)を見据える。その眼には、決意や信念よりも怯えが色濃く揺らめいていた。村長(若ハゲ)は僅かに眉根を寄せ、小さく息を吐く。
「解ったよ、モモさん。もう止めやしねえよ」
有難う御座います、とモモタロヲは頭を下げる。
「只、何も一人で行く事ぁ、ねえだろ」
村長(若ハゲ)は集まった野次馬へと片手を挙げ、
「なあ、おい。誰かモモさんに附いてってやっちゃあくれねえか」
そう問い掛けた。モモタロヲが何かを云うより早く、はいィィィィと鬼気迫る声が響いた。
「あたしが行くよ、あたしが」
赤い液体を盛大に噴出させながら媼が叫ぶ。モモタロヲが肩を微かに顫わせ、翁に助けを求めたのと、翁が持ち上げた釜で媼を殴り倒したのはほぼ同時だった。白目を晒して横たわる媼の背を踏み付け、翁はそれじゃ意味ねぇんだよ、この色腐れと唾を吐く。
「あの、一人で大丈夫ですから」
村の若衆に声をかけ、お供を物色している村長(若ハゲ)の袖を引き、モモタロヲは村長(若ハゲ)を止める。
「いけねぇ、そいつぁいけねぇよ」
「ホントに大丈夫ですから」
「否、駄目だ。最低でも一人、お供をつけねぇ事には俺はアンタを村の外へ出さねぇよ」
「村長(若ハゲ)さん――お願いですから」
幽かに眉根を寄せ見上げてくるモモタロヲの双眸は薄く涙を湛えて潤んでいた。村長(若ハゲ)は少し怯んだ。でも村長(若ハゲ)は頑張った。何故だか此処でお供を一人登場させなければいけないような気が物凄くした。だから頑張った。頭髪が薄くったって代々村長を務めてきた血族としての誇りは持っている。流石だ、村長(若ハゲ)。 「悪ぃが、受け入れられねぇ」
「村長(若ハゲ)」
媼の背に乗った侭で翁は固い声を出す。
「あんたの気持ちは良く解った。その心遣いに感謝するよ。どうだろう、そのお供、こっちで選ばしちゃあくれねえか」
おじいさん、と驚くモモタロヲに翁は大丈夫だと軽く頷いて見せた。腕を組み、右斜め上空を睨みながら何やら考えていたらしい若ハゲが、ふむ、と鼻から息を吐き出し、
「まあ、いいだろう。あんた達で選んでくれや。嫌がりやがったら村長権限で何とでもしてやるよ」
「そいつぁ、有難いが」
翁は笑う。
「その必要は多分ねえな。拒否したりはしねえよ。なぁ、狗丸?」
当然だなと狗丸も笑う。


Written by kaito




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