蒼い菊花  紅い血玉  蒼い階梯  蒼い金魚

滅びに至る暁闇



蒼い菊花

濁った空は貪婪に雪を降らせる。庭を真白く染め上げ凍てつかせて尚、満足できぬらしい。雪はさわりさわりと昨夜から間断無く舞い続けている。私はそれを縁側に腰掛け、柱に背を預け、見るとも無しに見ている。私の背後では家人と使用人達が廊下を行きつ戻りつしながら忙しなく立ち働いていた。喧騒が潮騒にも似た律動で打ち寄せ退いてゆく。
母屋から離れへ至る雪の上に獣の足跡があった。こちらへ向かってくる足跡は飼っている老猫のものではなさそうだ。彼は昨夜から私の部屋で火鉢を独占している。あの小さな、頼りの無い感じのする足運びは、時折見かけると兄が呟いていた雪兎のものであろうか。或いは、今朝早くに死んだ兄自身のものかも知れぬ。
からりと障子が開いて母が姿を見せた。
「何してますのや。風邪ひきますえ」
「ああ。ええ、お母さん。気ぃ付けます」
母は私の側まで来ると、湯気の立ったお茶と握り飯の乗った盆を置き、
「お午まだですやろ。みィんなばたばたしててこないな物しか用意出来まへんけど」
「これで充分ですよって、おおきに」
「まだ此処に居てはるおつもりなんやったら、火鉢ぐらい持ってきなはれ」
私は湯呑みを両手でくるみ、悴んで朱く熟れた指先を暖める。
「僕の火鉢は今、坂田さんが使(つこ)てはるんです」
「まアまア、ほンなら坂田さんごと持ってきたら宜しいわ」
皸も霜焼けもないほっそりした奇麗な指で口元を隠し、母は品良く笑んだ。
「ほな、まだもう暫くばたばたしますよって堪忍え」
「ええ。立派な弔いにしたげて下さい」
兄は、庭の片隅にある忘れられたような小さな池の上で死んでいた。見つけた庭師の老爺に叩き起こされ、駆け付けた時にはもう、庭の景色に溶け込んでいた。柔らかな髪に、痛々しい痩躯に、蝋のような指に、何も彼もに雪を纏った兄は、羽化に失敗した蛹に見えた。
誰もが兄の死に安堵している。母でさえ安堵を懐に隠し呑んでいる。悼んでいるのは私と、祖父の代から仕えてくれている庭師ぐらいであろうと思う。
私は庭に下り、獣の足跡を逆さに辿った。しきしきと雪が鳴る。廊下に囲まれた、八畳ほどの小さな離れが兄には世界の全てだった。無造作に積まれた本と、乱雑に置かれた絵筆や絵皿や紙片、それらが住人不在となった今でも変わらずに兄の世界を構築している。一枚一枚、紙片を拾いながら兄の世界に無断で這入り込む。兄の絵は、蒼い色だけで描かれている。猫の坂田さんも、部屋を飾る沈丁花の枝も、離れから見た母屋も、花弁を散らした菊も、全てが蒼い。ほんのりと色付いた、白皙に僅か透ける静脈のような蒼から、踏み荒らされた雪の、くすんだ灰色に近い蒼まで、様々な濃淡で描かれた絵は水墨画に似て深遠で、凄艶で、凄愴だった。
一回り歳の離れた兄は私が五つか六つの頃から既にこの離れに幽閉されていたように記憶している。
長男であるにも関わらず――否――長男であるからこそ、兄は幽閉されねばならなかった。
病んでいたのだ。病巣は精神にあった。私は兄の病因を知らぬ侭である。訊いても教えては貰えぬので何時しか訊ねる事をやめてしまった。兄には出来るだけ近付かないよう云い含められてはいたが、私は頻繁に兄の元へ通った。
兄はいつも絵を描いていた。
細い指先で細い筆を摘み、紙片を蒼で濡らしてゆく。
虚ろな眼は焦点を正しく結んでおらず、やけに朱い口唇は幽かに開いており、傍へ座り込んだ私を気に留める事もなかったが、それでも時折、ほんの気紛れに正気を取戻した時にはとても可愛がってくれた。眼は矢張り虚ろで茫洋と揺れていたけれど。
私は一度、兄に訊ねた事がある。兄様は菊の花がお好きなの、と。雑多な絵の中で菊だけは異様な情感を帯び、数も可也あったからだ。
兄は私が吃驚する程に瞠若し、私をきつく抱いた。兄様、と問い掛ける私に、いいえと頸を振り、兄は涕涙した。
いいえ、菊が好きやったんは彼(あ)の人の方――。
虚ろでも無く茫洋ともしていない確りと焦点の定まった兄の眼を見たのは、後にも先にもあの時だけではなかったろうか。
はたり、と紙片に涙が落ちた。蒼い菊が滲む。兄は死んだ。理由は誰にも解らぬ。夜更けの池で何をしていたのか、何がしたかったのか、知る術はない。唯、死んでいた。
私は何も知らぬのだと今更ながら気付かされる。幽閉の経緯も患う以前の様も蒼い菊も何も彼もを私は知らぬ。
蒼い菊を凝視めながら、私はほろほろと泣き続けた。

青い菊花-了
Written by kaito





紅い血玉

つい、と白い膚に刃を走らせる。
手首の内側の、皮膚の柔らかい場処に、一筋の朱い線が滲む。
ふくり。血が膨れて零れる。
それを彼の前に差し出す。
どうしたと訊くから、切ったと応える。
「――そう」
彼は手首を引き寄せ、絡む血を舌先に乗せてゆく。
疵の上を彼の舌が這う。皮膚に触れた口唇がくすぐったい。
おいしい?
そう訊ねたら、鉄分不足だと言われた。
舌は掌を這って指を昇る。
歯が指先を挟む。
「痛いよ」
揶揄と媚を含んだ抗議に、口角を引き上げただけの笑みが返ってくる。
腕が伸びてきて髪を掻き回す。
二人で笑った。
ころころと血玉が転がる。

紅い血玉-了
Written by kaito
真性のバカだわ…





蒼い階梯

それは蒼い色をしていた。
空の高く清澄な蒼よりも湖の深く凛冽とした蒼に似ている。
灯りの乏しいこの場処で視認出来るのは僅かに三段。けれどその三段が酷く遠い。踏み面の距離は恐らく、成人の足で二十歩程。三段から先は灰桜に霞んでいる。
仄かに揺れ動く闇の裡、重厚で壮麗な蒼い階梯に私は威圧されていた。
左右を見遣れば蒼が濃さを増して伸びている。端が在るのか無いのか、私には判らない。見遣る先は矢張り灰桜の霞。背後だけが硬く昏い。
拒絶されているのだと、私は知っている。誰に諭された訳でもないが、そうなのだと深奥で理解している。私は決して戻れない。蒼い階梯に背を向け、逃げ出す事は出来ない。後ろの闇が赦さない。
昇るしかないのだろうと思う。右へゆく気概も、左へゆく蛮勇も、私は生憎と持ち合わせて居ないのだから。
私は階梯に足を乗せた。何で出来ているのか、階梯は、しむ、と軋んだ。しむしむしむ、と私は歩く。
半分を過ぎて、漸く私は気付く。一段一段が広いだけではなく、高さもあるのだと。
近付くにつれ、顎が上がる。頸をほぼ垂直に曲げ、二段目を見上げながらどうしようかと考えていたら、蹴込みに小振りな階段が彫られていた。二度手間じゃあないかと思う。私は人一人が何とか通れる幅の階段をちまちま上る。本当に何で出来ているのか、階梯の裡は月明かりを跳ね返す青錆のように鈍く発光していた。
奇麗だなと、触れてみる。思った程冷えてはいなかった。
何故だか徐々に狭くなる階段を上り終え、私は二段目を踏む。
その刹那、滝が流れ落ちるが如く記憶が溢れてきた。
四十九回目の誕生日。初孫の匂い。同僚の栄転。枯れてしまった躑躅の色。連れ合いの好きな和菓子。
階梯を昇る度、記憶が溢れる。
式でブーケを全力投球した娘の勇姿。ウィーンに留学中の息子から送られて来た不動明王の絵葉書。出逢った頃の連れ合いの声。幼友達の額にあった傷痕。飼っていた猫の体温。
懐かしさに泣きたくなる。
高校生の頃、只管竹刀を振るっていた。全国大会が目標だった。県大会にすら進めなかった。悔しさに泣いた。
あの頃はまだ、努力と釣り合わない結果に泣く事が出来た。
中学生の時、級友が新任教師と姿を晦ませた。不潔だと、そう思った。今なら羨ましいと素直に言える。
彼等はその後何処でどう生きたのだろう。
蒼い色が私の人生を照らしている。
母に抱かれ、父に背負われ、祖母の話を聞き、祖父の仕事を凝視め、曽祖父の床で様々な事を教わった。
私は転がり落ちた一粒の涙を踏み付けて七段目を昇りきる。
今までよりも尚広い踏み面の半ばに、簡素な事務机が据えられていた。その事務机で矢鱈と体躯の良い男が爪の手入れをしている。私に気付いた男は、引き出しから分厚い巻物を取り出して広げ、私の名を読み上げた。私は思わずはいと応える。男が手招く。近付けば、待ってたわと手を握られた。
ようこそ、初七日へ、と男は不適に笑い、アタシは秦広王、第一の裁きを与える者、なんて言うより初七日って言った方が解りやすいでしょ、と片目を瞑った。
確かに解り易いと私は苦笑する。
で、と秦広王は整えられた爪の先で巻き物を突いた。
どうだった? 人生。
そうですね、と背後を振り返る。凡てが蒼く煌いて。
良かったですよ、とても。
私は産まれ落ちた瞬間を思い出す。

蒼い階梯-了
Written by kaito





蒼い金魚

知らぬ間に、金魚が一匹増えていた。
庭の池で鯉に交じりゆらゆらと泳ぐ其の金魚は、酷く蒼く妙に円い。
あれは何かと訊ねて回ったが、父母も祖母も曾祖母もメイドも知らぬと云う。
ならば姉であろうと、池の傍で呆けている姉に質してみた。

――姉さん、あれは何ですか。

姉は、ふふ、と悪戯を思い付いた稚児の如き笑みを浮かべ、

――何だと思う?

と私を見た。

――金魚でしょ。蒼い。
――其れがね、違うのよ。

あれは、と姉が金魚を指差す。

――月よ。

姉は勝ち誇った眼で金魚を視ている。

――気は、確かですか。
――よく、思い返して御覧なさい。あれが此処に来てから、夜空(よるぞら)に月のない事を。
――ああ。

云われてみればそんな気がするようにも思う。
あの金魚が何時から池に居るのかは皆目知らぬが、確かに此の所夜がやけに昏い。

――姉さん。
――なぁに。

姉は咲(わら)っている。

――何故月が、家の池に在るのです?
――其れはね。

証なの、と姉は云った。

――人質、と云っても良いわ。人ではないけれど。
――意味が、解りません。

姉は、と姉が云う。

――近々嫁ぐ予定になっています。
――其のぐらいは、知っています。

義兄となる御仁には幾度か会っている。柔らかく、冷たく、少し湿ったような人だった。

――あれは、約束を違えず此の姉を必ず妻(さい)にして呉れると云う、其の証に預かっているのです。
――姉さん。
――なぁに。
――貴女は、何処へ嫁ぐおつもりなのですか。

夜よ、と姉が紫紺に染まり始めた穹を眼線で示す。
そうですか、と私は姉を見る。
ふ、ふ、ふ、と姉は面妖に咲(わら)っている。


姉の婚儀が恙無く滞りなく済んだ其の宵、穹には酷く蒼く、妙に丸い月が懸かっていた。
爾来、姉は金魚と共に姿を消している。

蒼い金魚-了
Written by kaito
捻りもオチもクソもねえ。









滅びに至る暁闇

目醒めなければいい。夜毎そう思う。
私も世界も、凡て、目醒めなければいい。
夜闇にたゆたった侭、何も感じず、何も考えず、何も視ずに、虚無に融ければいい。
何を想い何を欲し何を望んで世界は在ろうとするのだろう。
其処が深い闇なら闇に為ればいい。
其処が昏い霧なら霧に散ればいい。
其処が紅い死なら死に拠ればいい。
何故抗うのだろう。
抗って、何処へゆくのだろう。
立ち上がり突き進む先に何が有るのだろう。
腱が切れる程展ばした腕を、何が求めるのだろう。
私は、眼を閉じていたい。
泥に沈んでいたい。
眠っていたい。
夢は要らない。世界も要らない。
私は世界を望まないし、世界も私を望まない。
私は要らない。
世界に私に凡てに、私は要らない。
誰も何も欲しない。
其れでも、夜は明けてしまう。
私は目醒めてしまう。
暁光が日毎私を滅ぼす。
退廃と辛苦が私を手招く。
彼等だけが私を求めている。
ゆこう。再び凡てが夜に覆われる迄。退廃と辛苦が求める侭に。
嗚、だから。
せめて。
後五分――。

滅びに至る暁闇-了
Written by kaito
オチ弱い。



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