東へ西へ(プロット原案)

寂しいと、感じる事はない。
只、辛い。只、痛い。
夜、床に就いて薄明かりの中で腕を伸ばす。痩せて筋張った、汚れた腕。
何も掴まなかった、何も産み出さなかった、何も持っていなかった、蒼い腕。
傷付いた自分を掻き抱き、慰める為の柔らかささえ与えられなかった、私の腕。
この腕で闘って来た。刻まれ、抉られ、血に塗れた私の核を、握り、潰し、打ち捨てたこの腕で、生きてきた。 汚泥の中を、這いずって来た。
自分を殺したこの腕は、冷えて、汚い。けれど、私が持つ唯一の武器で、唯一の守護だ。
私は硬い腕で堅い躰を抱いて眠る。

私には金がない。金どころか何もない。
其れでも、其れなのに、毎朝目覚めて、毎日生きてしまう。だから、私は歓楽街の隅にある弁当屋に通う。
其処で私は弁当を作る。米を炊き、注文を聞き、肉を揚げ、金を受け取り、味噌汁を温め、毎度有難う御座いますと頭を下げる。
早朝のシフトである私が会う客は、仕事帰りだろう疲れた女が多い。
其の中に、矢鱈とハイで明るく笑う人がいた。彼女は、薬で縮んでいく陰茎を所持した人で、いつ会っても笑っていた。酒か、薬の所為なのだと思っていた。其の所為でアッパーな情緒なのだと。
アンタね、と彼女に声を掛けられたのは、十二月も末の、奇妙に涌き上がってくる焦燥と歓喜とその他諸々が混ざり合って良く解らない空気の中を、誰もが忙しさと慌ただしさで騙し乍ら行き交う頃の、早朝だった。


「アンタね、暗いのよ」
突然話し掛けられ、私は釣り銭を持った手を止めた。目を遣れば美人ではないが愛嬌のある丸い顔が満面に笑みを湛えた侭、暗いのよと再度云った。はあ、と私は応える。
「陰気なの。じめじめしてるの。湿ってるの。くすんでるの。澱んでるの。濁ってるの。気が滅入るの」
「はあ、済みません」
クレームか。面倒臭い。そう思った。誰も他人の事など気にしないのが此処にある唯一の美点だと云うのに。
「以後、気を付けます」
アナタの笑顔も気が滅入りますよと心中で返し、釣り銭を渡す。釣りと弁当を受け取っても彼女は気の滅入る笑顔で私を見ていた。私は今、笑っています、そう主張する笑顔で。
「ねぇ」
彼女の声は少し擦れている。酒か煙草か其の両方か。或いは裏声か。
「アンタは何が辛いの」
問われている言葉の意味を、瞬時には理解出来なかった。余りに唐突過ぎた。
「何が辛いの?」
いえ、と私は彼女の笑みを見る。
「いえ、特には何も」
「嘘だわ」
笑顔で云い切って、彼女は背を向けた。
嘘だわ。
嘘だよ。
私は辛い。痛い。此の世界が。
子供染みた愚かしい考えなのはよく解っている。幼く、愚かしく、エゴイスティックで、恐らくは恥ずべき感傷。 だからこそ、恥だとされるからこそ、私は此の世界が辛い。此の世界に生きるのが痛い。此の世界が嫌いでならない。此の世界は、優し過ぎる。此の世界の優しさは、私を傷付ける。此の世界の優しさが、私を押し潰す。此の世界の優しさから、私は逃げ出したくて堪らない。
理解して欲しいとは思わない。受け入れてくれとも云わない。只、放っておいて欲しい。只、私を、放っておいて欲しい。私は私で在りたい。私として在り続けたい。其れだけなんだ。
例えば、と私は弁当箱に飯を盛る。
大盛りでお願いね、とカウンタの向こうで客の男が云った。
例えば昨日。パートの小母さんから、口紅を一本、貰った。アナタにね、とっても似合う色だと思ったの。濡れた、褪紅色の口紅。年頃なんだからメイクぐらいしなくちゃ。面倒がっては駄目よ。アナタ、メイクの映える顔してるんだから。
其れは、きっと善意だ。善意で、厚意だ。
けれど、其の善意と厚意が、私をメッタ刺しにする。突き刺し、抉り、切り刻む。
ねえ、小母さん。私は、私の侭ではいけませんか。皆と、同じでなければなりませんか。アナタと、同じでなければなりませんか。不細工な素顔を、晒した侭ではいけませんか。私は、アナタ方と同じ場処に、立ってはいないのです。
化粧、と弁当を受け取った男が云った。二十半ばの若い男で、ソープの従業員だったように思うが、定かではない。
「化粧、してない女って中学生みたいだよね」
「そうですか」
「男子中学生」
「そうですか」
「合法?」
「違法でしょう」
「合意なら合法?」
「合法でしょうけど、其れ、満足出来ますか?」
「だよね。パっと見はそうでも矢ッ張り違うもんね、全然。躰もあるしね」
「ですね」
「キミのはソレ、胸、潰してんの?」
「ナチュラルです」
「そう。惜しいな。男ならイケたのにな」
「男なら中学生面(づら)してませんよ」
男はからからと笑い、手を振った。
「だね」
私は有難う御座いましたと頭を下げる。
色ンな人が居る。色ンな人が居るのに、正義を握るマジョリティは其れ等に眼を向けてはくれない。皆、誰もが同じだと、思い込んでいる。其れは、主に中高年に多いような気がするのだけれど、少しでも違えば唾棄し、忌避する。理解出来なければ気持ち悪い、信じられない、と吐き捨てる。でなければ、治してやろう、同じにしてやろうとする。軍隊式学校教育の弊害だと、私は思う。
色ンな人が居る。此の世界に、居場処はない。

あの朝以来、彼女は、縮んでいく陰茎を所持した彼女は、私に声を掛けて行く。
暗いわ。湿ってるわ。澱んでるわ。気が滅入るわ。
満面の笑みでクレームを入れる彼女の目的が、私には解らない。店長や本社にクレームを上げる気配もない。
只、弁当を買い、笑い、私に文句を垂れる。鬱憤を晴らしているのか、構って欲しいのか、純粋に私が嫌いなのか。
何にせよ、余りに同じクレームを云われ続け、飽きてきた私は、多少の皮肉を篭め彼女に問うてみた。ずっと、疑問に思っていた事を。
アナタは――
「アナタは何故、そんなにも笑っているのですか」
一度、瞬く間だけ眸を揺るがせた彼女は、其れを取り繕うかのように常よりも深く、濃く笑んで、
「辛いからよ」
と、朗らかに答えを吐いた。
「そうですか」
「そうよ」
私は辛い、傷付いています、そんな顔した奴を見てると腹が立つわ。笑顔を崩さぬ侭で、彼女はそう云った。嫌われていたのだと解って、何となくすっきりした。
「そんな顔、してますか?」
「してるわ。何が辛いの。何に傷付いてるの。何が不満なの」
多分、と私は彼女の笑顔と正面から対峙する。
「アナタと同じですよ」
「莫迦にしないで。一緒にしないで」
「そうですか。同じだと思ってました」
「違うわよ、全然、違うわ」
「そうですね」
「アタシ、アタシは」
彼女の笑顔が僅かに歪んだ。触れてはならない箇所だったのかも知れない。面倒な事をしてしまったと、密かに息を吐く。
「アタシは、アタシだって、辛いのよ」
声は低く震えていたが、顔は矢張り笑っていた。少しだけ、怖いと思った。
「でしょうね」
其れで終わりだった。私は常連客を一人、逃した。


私の仕事は昼で終わる。昼からは件の小母さんが煙草を吹かしながらレジを打つ。ねえ口紅、と煙草の火を揺らす小母さんに手を振って、私は店を後にする。口紅は貰ってすぐ本棚の裏に転がした。持っているのは苦痛だったし、かと云って捨てる訳にもいかず、だから、致し方なく転がした。転がしてから二月が経つ。引っ越す時には忘れて行こうと決めていた。
真昼の歓楽街は閑散として、寂れている。路のあちこちにこびり付いた濁世の残滓が、饐えたような、腐ったような臭いを放つ。私は其れ等を睥睨して歩く。鼻はもう、異臭に慣れてしまった。
五分程歩けば、歓楽街と住宅地とを隔てる境界が見えてくる。境界には境界の標としてコンビニがぽつねんとある。
其のコンビニに、彼女は居た。コンビニ前のベンチに座り、缶ビールを呷っていた。思わず立ち止まってしまった私を、彼女が目敏く見付け、ちょっとアンタ、と手招く。流される侭流されるだけ流され続けて来た私は、素直に応じ、彼女の傍へ寄った。彼女は足下に置いた袋から取り出したビールを一缶、私に放り投げ、自分の隣を指差した。無論、笑顔で。
「呑みなさいよ」
私は腰掛け、プルタブを引き上げる。
「何、やってんですか」
「呑んでんのよ」
「それは、まあ」
見れば解ります。
彼女の足下にある袋は、潰された空き缶で埋まっていた。隙間から開けられていない缶が幾つか見える。
「ツマミ、ないんですか」
「勝手に買ってきなさいよ」
云われた通り勝手にツマミを購入してきた私に、彼女は微かに哀しそうな笑顔で、アンタ、自由ね、と云った。
「そうでも、ないですよ」
「いいえ、自由だわ。羨ましい」
「はあ」
人に、羨まれたのは初めてかも知れない。
「アンタ、寂しいなんて思わないでしょう」
「そうですね、思いません」
「独りでも平気でしょう」
「ええ、平気です」
「アタシは駄目」
そう云ったきり、彼女は押し黙った。時折、咽喉を鳴らしてビールを流し込む。私はツマミに買った唐揚げを勧めたが、彼女は首を振った。
「酒ばっかりだと胃に悪いですよ」
「いいのよ」
「そうですか」
無闇に踏み込まないのが私の唯一の美点だと思う。知り合いは冷たいと云う。
で、と私は唐揚げを咀嚼する。
「何やってんですか」
「呑んでんのよ」
「いや、そうじゃなくて」
「もう、いいのよ。アタシは、駄目なの」
何が。
「アンタは、いいわね。どんなに傷付いて、辛くって、痛くっても、独りで立って居られる」
「ソレ、結構しんどいですよ」
「でも、壊れないじゃない」
「壊れそうなんですか」
否。違うなと思った。此の人は疾うに壊れているのだろう。
「解らない。何も、解らないのよ。只、もう、駄目なの」
だから、何が。
「もう、独りは駄目なの」
私には、良く、解らないのだけれど、人は、独りでは生きられないモノであるらしい。何時でも何処でも誰かが訳知り顔で宣っている。
「誰かしら居るでしょう」
誰か、が居なくても、何かしらが居るではないか。犬でも猫でも狐でも鼠でも。
「居ないわよ」
彼女の笑顔が、心成しか崩れた。
「居る訳ないじゃない。だって、アタシ」
こきり、と缶が握り潰される。
「アタシ、ちゃんと女じゃないもの」
其れは。
「そんなに関係ないでしょう」
あるわよ、と彼女は小さく叫んだ。
「大いにあるわよ。どんなに頑張ったって、どんなに治療したって、アタシは女の振りした何か、じゃない」
「ソレ、そんなに大事ですか」
「アンタ、何云ってんの?」
「其の侭ではいけませんか。生まれついての女でなければアナタはアナタに為れませんか」
「当たり前でしょう。アタシは女なんだから」
「でも、男だったのでしょう」
「そうよ」
怒気を含んだ声が耳朶に刺さる。けれど、生憎と私は人の懊悩や感情に、とても疎い。
「だったら、其れで何とかするしかないじゃないですか。生まれ直す事なんて不可能なんですから」
「ア、アンタは、ちゃんと」
私は、と静かに彼女を遮った。
「私は、どちらにも為りたくないんです。私は男でも女でもない何かで在りたい」
「で、でも」
「でも、そうですね。基本的にはどちらかですから、色々と仕方ないです。ですけど、役所に届け出た性(セクシャル)で扱われるのは、酷く苦痛です。アナタなら解るかと思います。だからと云って、違うんだ、私はどちらでもないんだ、と訴えた所でどうにもならない。面倒なだけです。幸いにも私は中途半端なナリをしてますから、時々苦痛に耐えるだけで済んでますが」
彼女は俯いている。潰した缶を袋へ放り込み、換わりに新しい缶を引き上げる。
「アナタの辛さや痛みを全く知らない奴が、適当に喋ってるのではないと云う事だけ、留め置いて下さい」
解ったわ、と彼女が呟いた。
「私は私に為りたいんです。私で在りたいんです。備わってしまった性なんてどうしようもない。間違っていようが違和感があろうが、どうしようもないですよ。治せるなら治せばいいです。だけど、アナタが云ったように、完璧にはなれない。だったら、其れ全部丸ごとひっくるめて呑み込んで、其れで尚且つ自分に為ればいい。自分で在ればいい。社会も世間も一般も普通も当たり前も、どうでもいい。関係ありません。私は私です」
「そんなの、きっと、認められないわよ」
「何故です? 何故認めて貰わなければならないんです?」
彼女は一息にビールを呷る。
「誰もがアンタと同じように為れると思わないで」
「簡単ですよ」
「無理よ。怖いもの。独りは、怖いもの」
「怖くなんて、ないです。怖くても、其の内慣れます」
「可厭よ。独りは、可厭。もう独りで耐え続けるのは、可厭なの」
もう耐えられないの、と彼女が右の掌で両目を覆う。なら、と私は彼女の口元に視線を向ける。
「其の、笑うの、やめてみたらどうですか」
「出来ないわ。笑わなかったら酷い顔だもの」
「そんな事ないです」
「要らないわ、そんな慰め。ブスは笑ってなくちゃいけないのよ。じゃなきゃ嫌われるのよ」
「思い込みですよ。縦しんば嫌われたとしても、問題ないです」
「アタシは嫌われたくないの」
「誰にも嫌われない奴なんて、居ませんよ」
「知ってるわ。其れでも、出来ないの」
「出来ますよ」
ねえ、と彼女は指の隙間からこちらを見た。
「アンタの勁さ、押し付けるのやめてくれない?」
勁くなんてないです、莫迦なだけです。そう云おうとしてやめた。
「済みません」
「アタシ、アンタ嫌いだわ」
「そうですか」
「苛苛する」
「そうですか」
「アタシはアタシよ」
「そうですよ」
「だけど」
こんなアタシは要らないわ、と彼女は笑った。
其れで本当に終わりだった。翌朝、彼女は潰れた。

朽ちたビルと、廃れたビルの狭間で、彼女は潰れていた。
血と、脳漿と、濁世の澱に塗れて、潰れていた。
此れは、私が殺したのだろうかと僅か悩み、殺したのだろうなと思う。
此の世界は矢ッ張り辛く、痛い。


頑張っても所詮この程度なんです。

Written by kaito



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