桜花以前 :::春宵   :::夏霞   :::秋夜   :::冬苺   :::春暁

七つ :::始めに











桜花以前
:::春宵

それは、春にしては粘る風の吹く、昏い夜だった。
何も知らされぬ侭、少年は前を行く男の背を只追っている。左の指先がさりさりと土塀を僅かに擦る。先刻から指先を土塀に這わせて歩いているのだが、土塀はいっかな途切れる気配がない。この塀の向こうには何があるのかしら、と少年は頭上を見上げた。窃視されるのを防ぐ為に植えてあるのだろう松が、彼を黒々と見下ろしていた。
先を行く男は、彼に名を尋ねたきり黙り込んでいる。彼は男の事を知らない。男も大して彼の事を知っている風ではなかった。男は頼まれたのだと呟いていたから、知る必要もなかったのかも知れない。陽の傾く頃、突如として現れた男は、荷物を纏めて付いて来いと云った。素性も知らぬ男に素直に従ったのは居場処を失ったからだ。彼は一月程前に父を亡くした。母はとうに亡く、頼れる類縁もなかった。歳の離れた兄が一人、居るには居たが、兄は、彼が月を月と識り始めた頃に行方を晦ませた。居場処は素より生死すら彼には解らない。父母も知らなかったのではないかと彼は思う。彼は十一にして明日の暮しに懊悩せねばならなかった。
父が死んだ深更、彼は理由もなく眼を醒ました。常にはない事であったから、何とはなしに怖くなり父の寝具に潜り込んだ。そわり、と背が粟だつ。何かがおかしい、何かが違うと、そう思い父を揺すった。くにゃりと幼い手の侭に揺すられる父を見て、おかしいのは父なのだと悟った。父が死んでいる。彼は自分の寝具を固く躰に巻き付け、只管に朝を待っていた。
ふと、父の死を知った時の、大家の奇妙に歪んだ貌が思い出される。
死を悼むでもなく、独り残された彼を憐れむでもないその貌は、厄介な事になったと雄弁に物語っていた。身寄りのない子供を一人、追い出す訳にもいかぬけれど、家賃の払えぬ子供を一匹、置いてやれる程の余裕はない。彼の住まう、陋屋にも等しい長屋に、余裕を持った者等居よう筈がなかった。それでも大家は出て行ってくれとは言わず、隣の若夫婦は僅か乍も食餌を分け与えてくれた。
父の死体は、同じ長屋に住む男衆の手で共同墓地に葬られた。扱いはぞんざいだったが、其処には母も埋まっているらしいので、まあ良いかと彼は思っている。
父が埋められた日から、彼は仕事を探して終日歩き続けたけれど、十一の子供にまともな仕事を宛がってくれる酔狂な者はおらず、丁稚奉公するには時代が進み過ぎていた。
時折、彼を哀れに思った誰かが使いに呼んでくれ、小銭を手に入れたりもしたが、それも疎らで、食えぬ日が幾日も続いた。
見知らぬ男が手招いたのは、自分も父母のようにあの場処に埋まるのだろうかと、霞のかかる頭でぼんやりと考え始めた時だった。
付いて行ったらご飯食べられる? そう訊く彼に男は頷いた。
礼と別離の挨拶を述べる彼を、大家と隣の若夫婦は安堵を僅かに滲ませた憐憫の表情で見ていた。それで彼は、ああ自分はきっと売られてしまうのだなと思った。仕方無い。其の場に居た誰もがそう溜息を吐いた。
仕方無い。
彼は小さく息を吐く。
先を行く男が立ち止まり、土塀が途切れる。指先は重厚な木と鉄の硬さを感じている。彼は男の傍らに立ち、眼前の門扉を仰ぎ見た。門扉は男の背より幾らも高く、使われている材木や蝶番の鉄は、幾つかの時代に磨かれてきたのだろう、夜闇の中でさえ、ぬめりと黒く光っている。頭上の甍が闇より深い色で闇空との境界を示していた。両脇では屋号の書かれた巧緻な堤燈が門番の如く灯りを燈している。
少年の白いシャツが、門灯を照り返して鈍い黄色に染まった。少年は首を捻り、傍らの男を見上げる。男は何も云わず、慣れた様子で脇に誂えられた小さな出入口を開け、身を潜らせた。指先で彼を呼ぶ。僅かばかりの荷を胸に押し当て、彼は男の指先を追う。彼の住んでいた長屋一帯がすぽりと嵌まってしまいそうな前庭の隅に、咲き頃を少し外した椿が一つ、転がっていた。玄関の灯りは遠く、門灯の火は厚い壁に遮られて届かない。為に前庭は酷く昏い。白く、ほんのりと浮かび上がる飛び石が玄関への道を指し示している。男が其れを辿る。彼は背後を振り返る。遠目に落ちた椿が昏く紅い。

矢鱈に長い廊下を幾度か折れた。蒼黒の画を背負った襖と太い柱が左右に続く。彼を先導する初老の女は滑るように歩く。彼は小走りに女の背を追う。彼を此処まで連れて来た男は、出迎えた女から紙包みを一つ受け取ると姿を消した。不安がほんのりと彼に絡む。とくとくとくと、胸が鳴いている。何処へ連れて行かれるのだろう。どうやら売られる訳ではなさそうだけれど、只の子供でしかない自分にどんな用があるのだろう。左右に続く襖が障子に変わり、又襖に戻る。きし、と幽かな音を立て初老の女が足を止めた。八枚並んだ襖には墨の濃淡で描かれた四神が精緻に舞っている。女は廊下に膝を付き、畏まった所作で襖を開けた。御連れして御座います、と女が額づく。彼は立ち尽くす。からりとした二十畳程度の、畳しかない室で、不惑を過ぎたあたりの男が脇息に腕を預け座していた。女に背を押され彼はよろめくように室に足を踏み入れた。男が真っ直ぐに彼を見る。僅かに眩暈がする。彼の名を男が呼んだ。低く柔らかな声が距離を越え、彼に迫る。彼は、はい、と首肯した。彼の声が男の処まで届いたかどうかは解らない。更に、歳はと訊くので、十一だと応える。届いてはいるらしい。男は一度頷き、彼の背後で額づいた侭の女にご苦労だったね、もうお息みなさい、と声を掛けた。お息みなさいませと女が退る。男が歩み寄り、彼の髪に掌を置いた。付いて来なさいと云う。彼は何も解らぬ侭、三度(みたび)背を追う。矢鱈に長い廊下を幾度か折れ、渡り廊下を経て、奥座敷に至った。柔和な彩使いの鳥が、襖の上辺で緩やかに飛び交っていた。私の、と磨き込まれた廊下に男は声を落とす。私の末息子の部屋だ。末の息子は躰が弱い。年の大半を衾(ふとん)の上で過している。君を態々呼び寄せたのは他でもない。君に世話を頼みたいのだ。話相手になってやって貰えないだろうか。その代わり、君の面倒は私が見よう。そう言って襖を滑らせる。蒼い衾の上に座る少年がゆるりと頸を捻り、貌をこちらに向けた。開け放たれた障子から、燈篭に淡く照らされた裏庭が見える。少年の蒼白な貌色が闇夜に禍禍しい。誰、と少年は細い頸を傾げる。声は男に似て柔らかく、薄い硝子の縁を、指の腹で撫でたようだと、彼は思った。

緑朗です、と彼は少年の傍らに端座し、頭を垂れる。
「お世話を、仰せ仕りました」
温(ぬる)い風が吹いて、かたかたと幽かに障子が鳴る。
「――そう」
と白い頸筋を細い指先で撫で、少年は溜息のように呟いた。五指の先に褪紅色よりも一層果敢無い色の、薄い花が散っている。血が薄いのかしらと彼は思う。
少年の父である男は、名は緑(りょく)と云うのだと彼に教えた後、少年の貌色を窺い、調子が良さそうじゃないか飴湯を持ってきてやろう、と何やら愉しげに室を出て行ってしまった。結局、殆ど何も解らない侭、彼は奇麗な畳の上に座っている。彼の主になるらしい少年、緑は頸を巡らせ庭を見ている。
「あの」
どうしてよいか解らず、取敢えず声を掛けた。きっと、と庭に向けられていた緑の視軸が、くるりと彼を捉える。眼に蒼い翳がほんのり差している。
「きっと、父様は僕の為に歳の近い子供を捜していたのだろうね。仔細は解らないけれど、君が丁度良かったのだと思うよ」
「はあ」
そうなのでしょうかと、彼は曖昧に首肯し、そうなのだろうなと考える。でなければあんな貧民窟まで人を遣わしたりはしないだろう。親類縁者が居ないのも都合が良かったのかも知れない。給金は期待出来なさそうだが、それでも構わなかった。餓えなければいい。彼にとっても都合の良い話のようだと、それだけは理解している。この際、些細な事は気にしないでおこうと決めた。
「緑朗――だったね?」
「はい。緑朗、です」
取敢えず宜しく。そう言って緑はほんの僅か笑んだ。鬼灯の、白い花に似ている。 「いえ、こちらこそ」
慌てて頭を垂れる。さわりと髪を撫でられ顔を上げれば、緑の視線は再度庭に向けられていた。
「何を、見ているのです?」
「桜」
言われて見遣れば、遠い闇に白銀が浮いている。
「あの桜はね、蕾を開かせる時に人を喰らうのだそうだよ」
彼は闇に眼を凝らす。花は散っていた。



:::夏霞

尖り始めた夏の陽が彼を灼く。
彼は一つ息を吐いて暑熱を払い、伸びてきた前髪を掻き上げる。陽光に半時ばかり晒され続けた黒髪が酷く熱い。 彼が歩く度、胸の隠しに入れた砂糖菓子が転がって幽かな音を立てる。白く小さく繊細な菓子は、使わされた先で駄賃にと貰った。丸く脆弱な棘のある菓子を、一つだけ取り出して口に入れ、しゃくりと噛み砕く。砂糖の柔らかな甘みが舌に染みる。主に似ていると、彼は思う。
緑(りょく)に邂逅った春から三年が経つ。
彼は出来るだけ土塀に沿い、松の陰を渡り歩く。指先がさりさりと土塀を擦る。いっかな途切れる気配の無い土塀の途中、ふいに穿たれた裏門を彼は潜る。
陽射しを千千に跳ね返す、切子硝子を砕いて撒き散らしたような裏庭に、主が立っていた。
陽を受けた白いシャツに、緑の細く薄い躰が陰に透けている。彼は主の名を呼んだ。
「緑様」
緑はゆるりと頸を捻り、ああ君か、と幽かに笑う。
「何をなさってるんです? あまり陽の元に居ると躰に障ります」
傍に寄り、顔色を診る。この三年で血色の僅かな差異を見分けられるようになった。
「大丈夫だよ。最近は調子が良いんだ」
緑の華奢な首筋に指先を宛がって脈と熱を測り、眼を覗き込む。以前、見上げていた眼が、今は同じ高さにある。彼が成長した三年の分だけ、二つ上の緑に追い付いている。互いに成長期の少年でありながら、彼はほんの三年で追い付いた。緑とて成長していない訳ではない。只、とても遅い。生命(いのち)を肉体に留めておくだけで精精なのだろうと、主治医は云う。
彼は指先を緑の膚から離す。顔色にも脈にも熱にも異常はなかった。眼は勁過ぎる光の所為か、蒼みが濃いが、気にする程ではない。
「ほらね。大丈夫なんだよ、春はもう過ぎたし」
緑は何故か春を苦手としている。体調を大きく崩すのは決まって春であるし、春に崩した体調は永く燻って他の季節よりも治りが悪い。彼が此処へ来た春も、緑は酷い熱を出し、二十日余り身を起こす事も儘ならなくなった。
幼く何も出来ぬ彼は、只管傍にいようと努めた。深更、枕頭で微睡む彼の頬に掌を伸ばし、平気だから眠りなさいと喘鳴の合間に囁いた痛々しい微笑と、掌から伝わる顫える程の熱を、彼は今も鮮明に憶えている。
「ねえ、君」
少し歩こうか、と緑の細い指が手首を絡め取る。
「もう少し、陽が翳ってからにしましょう」
「駄目だよ。調子が良いのは今なんだ。陽が翳ったら熱を出すかも知れない」
云いながら緑は歩き出す。掴まれた侭の手首が曳かれる。
「待って下さい。せめて何か陽を遮る物を」
偶々通りかかった女中に、彼は日傘の用意を頼む。その間も緑は歩みを止めない。事情を察した女中が小走りに日傘を手渡す。彼は丁寧に礼を述べ、傘を差しかける。緑に近い腕は捉えられている為に、体勢が不自然になる。
「何処へ行く気ですか」
「川かな。川面が夏の光で煌いているだろうからね、其れを眺めに行こう」
ふわりと笑う緑に傘を奪われる。さあ、と手首に絡まる指の戒めが、僅かにきつくなる。

名も知らぬ鳥が一羽、沐浴を止め、飛び立った。飛沫が散る。
水浅葱の日傘が傾いて、蒼穹に消えた鳥を追う。
「驚かせたね」
彼は眩しさに眼を細め、手を翳す。
「何て鳥でしょうね」
「さあ? 丹頂かな」
「いませんよ、こんな所にそんな鳥」
そうだね、と傘の陰が彼を覆った。彼は緑の手から傘を取る。水浅葱の下、並んで川縁をゆるゆると歩く。普段なら水遊びに興じている近隣の子供等がおらぬ所為で、川の流れが矢鱈と耳に付く。饒舌な川とは裏腹に黙す彼等の足元で、濃緑の草葉が生き誇っていた。踏み締めれば水が滲む。
緑が徐に履物を脱ぎ捨て、川へ這入る。緑の脆弱な脚が水を砕く。
「緑様」
「平気」
彼も緑に続き、水を割る。川は広くも深くもない。子供の膝に届かぬ程度の水嵩と、子供の足で数歩程の川幅の、穏やかな流れの川。それでも緑は流れに足を取られる。くらりと傾ぐ躰に、慌てて腕を伸ばす。腰を支えた掌に硬い骨が当たる。
「緑様」
「うん。平気」
何処が、と睨める彼に緑は苦笑した。
「ちょっと滑っただけ」
「そのちょっとが曲者なんです。出ましょう。水の中は陽の刺激が強まります」
「厭だよ」
「緑様」
「こんな静かな事なんて滅多にないもの。いつも居る子供達はどうしたのさ」
「夜祭りがありますから。その準備に駆り出されてるんでしょう」
ふうん、と緑が朱唇を結ぶ。
「祭りね。僕は多分、行けないね」
「今から帰って息めば大丈夫ですよ」
「無理じゃないかな。人いきれは苦手だし。君は行って来ると良い。僕に遠慮は要らないから」
「行くなら一緒に行きましょう」
「無理だと思うよ。人が密集してる場処に行くと喘息が出る。だからさ、代わりに行って来てよ」
彼が応えるより早く、緑はくるりと背を向け歩き出す。
「緑様」
生まれた時にね、と緑が声を落とす。
「云われたらしいんだ。僕は十五まで生きられないと」
「けど」
「うん。僕は十六になった」
「はい。誕生日には盛大にお祝いを」
「そうだね。父様なんかとてもはしゃいでいたね。だけどね、思うんだ。本当に喜ばしい事なんだろうかって」
「何を」
「僕は病弱で、小さい頃はとても、今以上に酷かった。ちょっとした事ですぐに寝込むし、皆が浮かれる春には始終床から離れられなくなる。看病も付きっ切りになる。そんな時、考えるんじゃないかな。この子は十五までだから、十五までの辛抱だから」
「思い過ごしです。誰もそんな事考えちゃいません」
「うん、でも、僕は長子でも一人子でもない、末の子なんだ。居なくても、良いんだよ。生まれてこない方が、或いは、もっと幼い内に死んだ方が、良かったんじゃないか」
「そうしたら、俺は飢え死にしてます。今の俺があるのは、貴方が生きいたからで」
「そうかも知れない。だけどね、これから先、もしかすると、飢えて死んでいた方がましだったという事になるかも知れない。そうなったら、其れは無様な生にしがみ付いた僕の所為だ」
やめて下さいと、彼は立ち止まる。
「例えそうなったとしても、貴方の所為だなんて思いません」
「そうかな」
彼を見る緑の眼に、表情はない。
「そうです。陰ばかり見ないで下さい。貴方の生が俺を救ったんです」
そうかな、と緑は立ち止まった彼を置いて歩を進める。傘から出た緑の白皙に、灼けた陽射しが貼り付く。彼は緑の背を凝視める。其の背がゆるりと霞んで、視えなくなる。霞でも出たのだろうかと、辺りに眼を遣る。川辺の草葉は相変わらず濃緑で、川面は苛立ったように陽光を跳ね返していた。緑の背だけが霞んでいる。霞んで視える。彼は眉を顰める。あれは、あの人の生命の弱さだろうかと訝る。緑の背が霞の奥へ消えようとしていた。何故だか酷く不安になる。彼は水を蹴り砕いて後を追い、華奢な腕を掴む。振り返った緑の顔は、幽かに蒼褪めていた。
「何?」
「いかないで下さい、一人で」
「解ってる。行かないよ」
「帰りましょう」
顔色が良くないと云えば、素直に頷く。彼は、そ、と腕を曳く。緑の躰が頽れる。彼は抱きかかえて主の名を呼ぶ。
「大丈夫。急に血の気が引いただけ」
彼の肩に額を預け、緑が崩れそうな笑みを見せる。
「祭り、行っておいで」
「緑様が一緒なら行きます」
「君は、若い癖に」
融通が利かない、と緑が身じろぐ。緑の腕が胸の隠しに触れ、かさりと音が鳴る。
ああ、金平糖を忘れていたと、彼は思う。


何て云うか、輪をかけて出来が宜しくないです。何か駄目だ……。




:::秋夜

湿りを僅かに帯びた風が吹く。路の両脇に並んだ公孫樹がざわめいて、色の枯れた葉を散らす。彼は手を伸ばし、横を歩く緑(りょく)の細い手首に触れる。触れた緑の膚は、冷えて痛い。
彼は手にした肩掛けを緑の躰に纏わせる。月を仰いでいた緑が細い首を巡らせ、彼を見る。
「大丈夫だよ」
「貴方の大丈夫と平気は信用なりません」
酷いな、と緑は微笑う。その笑みに細められた眼を、彼は少し屈んで覗き込む。月の光を受けて蒼く滲む眼が、一度閉じられ、ゆるりと開く。睫が顫えた。
ついこの間まで同じ高さにあった筈の眼は、気付けば下になっていた。屈まず視線を下げれば脆弱な髪が見える。其の侭近付けば口唇が瞼に触れる。
「君は」
彼の頬を、緑の指先が滑ってゆく。冷たさが沁みる。
「大きくなったね」
「貴方は、果敢無くなった気がします」
「それは、仕方が無いね。僕の躰はもう限界だもの」
「また、そう云う事を」
「自棄になってる訳でも卑下してる訳でもないよ。自分の躰だからね、解るんだ」
「思い違いや思い込みは良くある事です」
緑は笑みを崩さず首を振った。
「だって、ほら」
緑の掌が彼の指を包み込む。緑の指に体温が流れる。
「君の躰はちゃんと命を繋ぎとめてる。だから温かい。でも僕は違う」
自覚あったんですね、と彼は緑の手に掌を宛がう。薄く小さく脆い。
「夜風で冷えただけです。邸に戻って暖まりましょう」
「厭」
「いつもそうやって我儘を言う。ちょっとは聞き分けて下さい。御年幾つにおなりですか」
十七だねと、緑は眼を伏せ、丹唇を弓に曲げる。空に浮く満ちた月とは裏腹な、朱い繊月。刻薄な笑み。
「良く、生きたねえ」
「何を、爺臭い事を。さあ、帰りますよ」
「もう少しだけ。木々の隙間から見る月が好きなんだ。お願いだよ」
「木々の隙間なら邸の庭にも腐る程あります。さあ」
「松や梅じゃなくて公孫樹がいいんだ」
「駄目です」
「緑朗」
「名を呼んでも駄目です。お疲れでしょう」
ああ、と緑は頸を傾げ、指で額に触れる。
「うん、疲れた。休まないと歩けないな」
「緑様」
「歩けない」
「良ければ背負いますが」
「それには及ばない。少し休めば平気」
彼は、とても苦い顔をした。
「ご覧、あそこ。丁度良く根が張ってる。あそこで休んでゆこう。ね?」
彼は眉間に皺を濃く刻み、長く深い息を吐いた。
「解りました。少しだけですからね」
緑がころりと笑い、眉間に指を伸ばす。
「君、若いのに縦皺が似合うね」
「誰の所為だと」
「僕に感謝しなよ。その歳で似合う奴なんてそうそういないから」
眉間の皺が、一層濃く、深くなる。

僕はね、と緑は月を仰いだ。仰け反った喉の輪郭が闇に蒼く淡く溶け入る。輪郭を視線でなぞり乍、この人はどうしてこうも蒼いのだろうと彼は考える。公孫樹の根に腰掛けた緑の躰が冷えてしまわぬよう、彼は緑を抱え込む。
「僕はね、秋が好きなんだ」
「知ってます」
「うん。秋はさ、死にゆく季節なんだよ。死ぬ事を泰然と受け入れ、終わる事を諦念している。だから、実らせる。逃げ切れない終焉に、ほんの少し、抗って鮮やかに彩付いてみせる。僕はそうありたい」
「抗って、ないんですか」
「ないよ。抗ってないし、受け入れてもない。諦めてるだけ」
「まだ、諦めないで下さい」
「君ね、僕の人生は諦めで出来てるんだ。僕がどれだけの物を諦めてきたと思ってるの」
彼は眉尻を下げた。緑がくつくつと喉の奥で笑う。
「でもね、君。諦めも、そう悪い物じゃないよ。僕は色ンな物を諦めてきたし、諦めてる。だからね、こうして月を眺められているだけで、幸せだと思える。朝、眼が醒めただけで幸運を感じる。僕はね、明日も眼醒めて当然な君達より、とても些細な事で幸福になれる。そこの所だけは、得をしていると思うよ」
解らないでしょう、と緑は云った。
「呼吸出来る幸せなんて。酸素が肺臓に満ちて、ああ良かった、なんて思わないでしょう」
「俺は、朝起きて、襖を開けて、貴方が躰を起こしてると、ああ良かったと思いますけど」
「それは、ちょっと違う気がするよ」
そうですかと、彼は反駁する。からからと笑った緑が、ふいに表情を消し去る。
「月が、隠れた」
緑の視線を辿れば、薄絹のような雲が幾重に月を覆っている。雲の間隙から漏れる光が、風でやわやわと揺れた。
「帰りましょう」
そうだねと応え乍、緑は立ち上がろうとしない。
「緑様」
「うん。君さ、体温高いよね」
「何です、急に。別に高くはないと思いますよ」
「そうかな。とても、温(ぬく)いんだけれど」
「貴方が冷えてるからでしょう。さ、立って下さい。立てないのなら掴まって下さい」
「こうしてさ、誰かに触れてるのって結構好きなんだよね」
彼は緑の冷え切った手を取って、立ち上がらせる。
「子供とか、猫とか、良いよね。ほかほかで。ああ、君がほかほかなのは子供だからだね」
「ほかほかじゃないですって」
「良いじゃないか、ほかほかで。羨ましいよ。僕は体温が低いから、誰かに触れて、その誰かから体温を奪うんだ。この何年かは、専ら君だけどね」
「体温ぐらいでしたら、いつでも、好きなだけどうぞ」
「体温だけじゃないかも知れないよ」
己の掌と緑の掌を確りと合わせて、彼は歩き出す。曳かれる侭の緑の足取りに疲れの色は見えない。彼は胸の内で小さく息を吐く。
「もしかすると、いや、多分きっと、僕は体温と一緒に君の命も奪ってる。僕は、君が父様に連れて来られた夜から君の命を奪って生きてる」
構いません、と彼は指をきつく握る。破れそうな緑の掌が僅か軋む。
「好きなだけ奪って下さい」
そうだねえ、と緑は笑った。
「君は、僕が奪ったくらいではびくともしなさそうだよね」
「褒め言葉ですね?」
緑は暫時、視線を彼から雲に逸らし、鹿爪らしい顔で神妙に頷いた。
「勿論だよ」


どうしても作文から抜け出せない……。
これBLじゃないんですよ、と言ったら誰か信じてくれるだろうか。




:::冬苺

森、と音がする。
彼は手にした読本から眼を上げ、庭を見遣る。雪が降っていた。空は蒼い侭で、ほとほとと雪片を舞わせている。雪片は地に触れて色を失い、土に染みる。
彼は庭に下りる。彼の膚で雪が融ける。掌に雪を受け、融けゆく様を凝視めながら、幾度目の雪だろうかと彼は思う。雪の季節を経る度に、彼の主は薄く、小さく、脆弱になっていく。先達て、緑(りょく)を診た医師は、良く保(も)っていると、硝子を吹く如くに呟いた。
良く、保っている。
近頃誰もが其れを口にする。当の緑でさえもが、血管の透けた羸弱な手首を凝視め、其の言葉を落とす。平淡で何を求めるでもない緑の声に、彼は酷く哀しくなる。痛ましい諦念で死を呑み込んでいる緑の代わりに、彼は溜息を吐く。濁る吐息の向こうに小さな背が見えた。庭を出て小振りな森へと歩を進める緑の背が、空と雪の色に滲んで淡く霞む。寒さ故か、先頃出した熱の所為か、足取りが頼りない。彼は再度溜息を吐いて主を追う。握った拳で、雪が熱に消えた。

白濁した靄が緑の直ぐ横を千切れながら流れていく。緩やかな足の運びに反して息が荒い。
あの人はいつも無茶をする。彼は眉を顰め緑の背を凝視める。当たり前に出来る筈の事が僕には出来ない、それが悔しいと、いつだったか緑は凍えた指先を暖めるように云った。だから緑は無茶をする。後々体調を崩し、小言を喰らうと解っていても、側仕えの眼を盗んで室を抜け出す。確かめたいのだろうと、彼は思っている。当たり前の事が自分にも出来るのだと、通り一遍の慰めや憐れみでなく、己の眼で、腕で、確かめたいのだろう、と。
彼は歩幅を縮め、速度を落とす。近付いていた背がゆるゆると遠ざかる。相変わらず空は蒼い侭で雪を散らせている。緑の脆弱な髪や剥き出しの頸に雪が降りて、彼は駆け寄り細い躰を上着に包みたくなるのだけれど、大仰に息を吐いて何とか堪える。今傍に寄ったとしても疎んじられるだけだと思う。緑がこの季節に一人で森へ向かうのは毎年の事で、彼とて虚けではないから学びもする。緑は一人で行きたいのだ、冬苺を摘みに。
冬苺は、緑がまだ幼く、今よりももっと病弱な自身に癇癪を起こしていた頃、側仕えだった老爺が好んでいたのだと、古参の女中頭が教えてくれた。緑はその老爺をとても慕っていたらしい。出来るだけ己の傍に居る事を望み、昔語りをせがんでいたらしい。老爺は些か無頼漢であったが、それ故昔語りの種は尽きず、又語られる内容は幼い少年を魅了するに十分な冒険譚や武勇伝であり、尚且つ老爺の語り口は滅法巧みであったから、緑は恐らく老爺の話に己を投影し飛翔させ、自らを慰めていたのであろうと、女中頭は云う。
でもねえ、と女中頭は深々と、けれど実に軽く溜息を吐き、あの人は今のあたしより年嵩だったからねえと梁を見上げた。
それは、啜り泣きに似た雪のちらつく小昼の事であったらしい。珍しく体調の良い日が長く続いていた緑を伴って冬苺を摘みに出掛けた老爺は、その帰路、心の臓を劈く痛みに膝を折り、緑の手首を握り締めた侭逝った。薄らと積もり始めた雪の上に、幾つもの紅い冬苺が転がっていた。緑はその後、老爺の急死が応えたのか、高い熱を出し幾日も臥せったのだと、女中頭は休んでいた手を動かし、布の綻びを縫い付けた。お辛かったのでしょうねえ、とても憔悴なされて、と糸を噛み切り、そう云う訳でアンタが連れて来られたんだろうねと、糸を吐き捨てる。
余程の事がない限り緑より先には逝かぬ年若い子を、話し相手遊び相手になる同じ年頃の少年で、緑の気紛れや起伏のある感情に耐えられる子を、否、帰る場所は疎か逃げる場所もなく耐えるしかない子を。
彼は思う。確かに逃げ帰る場所等ありはしなかったけれど、縦しんばあったとしても逃げ帰りはしなかったであろうし、耐えているつもりもない。
前を行く緑の背が、ふいにしゃがみ込んだ。足元に大地を這うようにして茂る蔓と、はち切れそうな紅を湛えた冬苺が僅か窺える。緑は冬苺を蒼みがかった指先で摘んでゆく。緑の指に摘まれた冬苺は、磨き込まれた紅玉にも、たった今膨れ出た血玉にも見えた。
冬苺を摘み終えた緑は進路を東に再度歩き出す。彼は歩調を合わせ、時に立ち止まり主を追う。緑の目指す先を、彼は知っていた。邸の片隅に、身寄りのない使用人を弔う為の墓堂がある。死ねば自分もあそこに安置されるのだろうか、それとも父母と同じ土に埋められるのだろうかと考えながら、彼は冬苺を供える緑を見ている。最後の冬苺を供え、線香の火を消した緑は、気力が途切れたのか、ことりと倒れた。彼は慌てて駆け寄り、抱え起こす。緑の膚と眼は矢張り蒼く、心なし髪先までもが蒼い。ああ、君か、と緑は掠れた声で囁き、幽かに微笑った。
「大丈夫、少し気が抜けただけだから、そんな怖い顔、しないで」
彼は首筋に掌を沿え、脈と体温を診る。脈は多少弱まっている程度だが、膚は酷く冷たい。
「雪が降ると、思い出すんだ」
「今は少し、黙っていてください」
彼は上着で緑を包み、背と膕に腕を回す。
「室に帰りますよ。いいですね」
仕方がないね、と素直に頷いた緑を抱えあげる。抱えた緑は余りに華奢で、余りに軽く、これがこの人の命の重さなのかと、彼は泣きたくなる。腕を引き寄せ、緑の躰を胸に押し当てる。首筋に、顔を埋める。
「君――緑朗」
緑の膚に甘く痺れるような匂いを嗅いだ。死にゆく命の匂いだと彼は思う。
生きてください。声を絞り出すように囁く。
もっと貪欲に生きる事を欲してください。
緑の指が彼の髪を撫でた。


書けば書く程駄目になってくってどう云う事ですかね。




:::春暁

気付いていた。
恐らく誰もが解っていた。
月に一度も訪れぬ使いの小童ですら、緑(りょく)に残された時の長さを計る事が出来たろうと思う。
それ程までに彼の人は果敢無さを増していた。
触れた肌は余りに薄く、掠めた吐息は余りに脆弱で、見返してくる眸子は虚ろに揺れていた。
緑朗と名を呼ぶ声さえ顫える。彼が口唇へ運んだ乳粥も深更に吐き戻す。立ち上がる事すら大儀であるのに歩きたがる。室を出たがる。春の柔らかな風が、緑の命を剥いでいく。
さわり、と風が吹いて緑の髪を一房撫でた。
彼は指先で緑の口唇を割る。綿を詰める。

桜が見たいと、緑が云った。
口の端(くちのは)に付いた血を、焼いた骨を思わせる指先で拭う。呑み込んだ粥よりも多めの血を、緑は吐いた。吐き戻された粥に血が搦む。血の色さえ薄い。粥の白と血の朱が混じり合って不安な色になる。
「何、云ってんですか」
「桜が見たいんだ。もうすぐ咲くだろうから」
衾に上体を起こし、緑は庭を見遣る。遠目の桜はリラの霞を纏って宵闇を従えていた。
いけませんと云う彼の声を、小さな、けれど勁い緑の声が遮る。
「駄目だ、駄目だよ君。多分、今行かないと咲いてしまう」
彼は清潔な布で緑の指を拭く。
「咲いてから行けば良いじゃないですか」
「それじゃ遅いよ。咲く処が見たいんだ」
緑の指先から血を拭い取った彼は、湯呑に入れられた薬湯を手渡す。
「朝になって熱が下がってたら行きましょう。きっとまだ咲きませんよ。取り敢えず今はそれ呑んで寝て下さい」
緑は湯呑の縁に軽く口唇を押し当て、そうだねと呟いた。酷く苦い筈の薬湯を眉一つ動かさずに呑み干す。
「朝になれば熱が下がってるかも知れない。桜も咲いてないかも知れない」
水面に広がる波紋のように部屋に響く抑揚のない緑の声に、彼は眉を顰める。
「君、今夜はもういいよ。悪かったね」
そ、湯呑を彼の掌に乗せ、緑は再度庭に視線を向けた。彼は緑の捻られた首筋に眼を遣る。暫時、互いに沈黙を吐く。
「行く気ですね?」
「当たり前だよ。確かに花は咲かないかも知れない。熱は下がるかも知れない。でも其れは、僕に体温が残っていないからかも知れない」
「明日、回復してる可能性と、体温が消え去る恐れは、程度としては同じです。けど、今動けば後者の確立が跳ね上がりますよ」
「同じ程度? 本気でそう思ってる?」
緑の頚がゆるりと回って彼を見上げる。薄く蒼い視線に絡まれる。
「何を、そんなに拘ってるんです?」
「君は、憶えてる? 君が初めて此処に連れて来られた日に、僕が云った事を」
「そんな、何年も前の事」
若いのに、其れじゃ駄目だよ、と緑は細い腕を突いて体を起こす。ゆらゆらと立ち上がって、くらりと傾ぐ。
「緑様」
肩を支える彼の掌に骨が刺さる。大丈夫と、緑は彼の胸を突く。
「本当に行く気ですか」
「行くよ」
「そんな体で、無茶です」
「無茶なら、もう、生きてるだけで十分無茶だよ」
緑は縁側に腰掛け、草履を履く。
「待って下さい、今、俥を」
「要らない。歩けるよ」
「無理ですよ」
君、と緑が振り返った。揺らぐ蒼さの裡で薄く笑っている。
「君、歩こう。あの桜まで。少し遠いけれど、大丈夫だから、歩こう」
そう云って、緑は一歩一歩を確かめながら歩き出す。彼は上掛けを掴んで後を追う。
醒めた弓張り月が夜闇の空を支配し始める。

近付くにつれ桜はリラの色を剥ぎ、極淡い白へと変じていった。
風もないのに花弁が舞う。七分余り開いた花が、白く瞬いて闇に溶け入る事を峻拒している。
桜の前に立った緑は、体を支える彼の腕をやんわりと解き、幹に掌を押し当てた。
「相変わらず禍々しい」
「以前(まえ)にも来た事が?」
「一度ね、君の前任と」
「ああ、冬苺の」
「そう。黒部と云う」
「ご高齢だったと聞いてます」
「黒部は、初めて会った時から爺だったね」
懐かしさからか、桜を見上げる緑の眼が細められる。
「大層懐いておられたとか」
「そうだね、好いていたね。黒部は壊れ物や腫れ物みたいに僕を扱わなかったからね」
成るほどと思い、彼は己を省みる。緑に仕えて六年余り、彼は只必死だった。只、生き続けて欲しかった。見透かしたように緑が笑う。
「君は過保護だったね」
「そう」
でしょうかと云いかけて、彼は口を噤んだ。さらりと放たれた過去を示す語法に顔を顰める。
「緑様」
緑は桜から手を離し、蒼然たる笑みを湛えて彼を見た。
「君、思い出した? 僕が最初の晩に云った事。あれはね、黒部に聞いたんだ」

先代が何の前触れもなしに連れて来た男は、黒部と名乗った。
坊ちゃん、と黒部は身を屈めて緑の幼く円い眼を覗き込む。声は嗄れていた。
坊ちゃん、今日からあたしが坊ちゃんの手足になりやしょう。

「黒部の素性も、家に来た経緯も、僕は知らない。多分、誰に訊いても解らないんじゃないかな。先代は知ってただろうけど、もう訊けないしね」
熱の消耗した緑を桜の根元に座らせ、彼は桜を見遣る。野辺に一本だけ生えたこの桜は野生だろうかと、考える。
「この桜ね、鬼の胎から生えたらしいよ」
「鬼の胎?」
「うん。まだ鬼が存在出来ていた頃、一人の姫君と人の形をした鬼が斬り合った。姫君の剣技はかなりのもので、一刀の元に鬼を断ち切った。その鬼の口惜しさから生えたのがこの桜」
「えらくあっさりした伝説で。大分端折りましたね?」
「そうだねえ。でも僕が聞いたのはこれで全部だよ」
「黒部翁ですか」
「そう。黒部は歩きながら色々な話をしてくれた」
昔語りを始めた緑の声に桜が降る。

あたしはね、と黒部は腕を揺すって緑を抱え直す。老齢であっても黒部の腕は衰えていなかったし、緑は十に近い子供であったけれど、媼ですら抱えられる程に軽く、華奢であったから然程の苦もなく黒部は緑を抱えて歩く事が出来た。朱に染まった空を幾許かの蝶が舞う。春の初めであったか、終わりであったか。
あたしはね、坊ちゃん。歩くのが好きでしてね。何せ、ずっと走っておりやしたから。
何故、と緑は訊いた。
走らにゃ殺される、そんな場処であたしは育ちやしてね。
僕は走りたいと緑が云う。走りやしょう、と黒部は応えた。
けど其れは、追われて走るのでも、追って走るのでもいけやせん。
坊ちゃん、と黒部は緑を川縁に下ろし、手を曳いた。黒部の掌は枯れて乾いていた。
坊ちゃんが走る時は笑ってにゃなりやせん。

「追うか追われるか、殺るか殺られるか、そんな生だったんだろうね。傷だらけだったよ、黒部は」
くすんだ膚に刻まれた傷を指し、これは春宵の桜の下で、これは夏霞の川の中で、と緑に請われる侭に黒部は傷の来歴を語って聞かせた。
「黒部の話は、室の衾の上に留め置かれた子供にはとても魅力のある話ばかりだったよ。当人にとっては死ぬか生きるかの凄愴な過去なんだろうけどね」
落ちてきた桜を一片受け取り、緑はかすりと笑った。
「どこまで本当の事か解りゃしませんよなんて云う女中もいたけど、僕は全部事実だろうと思ってる。病弱な子供に偽りを騙ってやれる程黒部は器用な人間じゃなかったもの」
緑が幽かに息を吐く。彼の背がそわりと僅か粟立つ。予感がする。

あの桜、見えやすか。
黒部が腕を真直ぐに伸ばして差した桜は、背負った空の朱い色で返り血に染まって見えた。
見えるよ。手を曳かれる侭、緑は応える。黒部を見上げて、桜まで歩くつもりなのだと解った。あの桜まで歩けるだろうかと緑は思う。
あたしはね、以前に一度あの桜の下で死にかけた事がありやしてね。
病気かと訊ねる緑に、黒部は違いやすと笑いかけた。
あたしは、追われてやした。

ざわ、と一陣の風が吹いて、緑は瞼を閉じる。揺れた髪と睫が彼をざわめかせる。
「帰りますか」
「帰らないよ」
「けど」
「大丈夫だよ。気分は良い」
体調も悪くはない、と蒼い膚で云う。
「緑――」
「君、黒部は当時十四ばかりの若造だったのだそうだよ」
乱れた髪を、緑は指先で整える。指先は月を映して蒼い。

追われてた理由は、さて、忘れやしたね。
大方、食い物を盗ったとか、女を獲ったとか、そんなのでやしょう。
矢張り途中で歩けなくなった緑は、黒部の腕に抱かれていた。黒部と同じ高さから見上げる桜は、斑に朱い。白い花弁から、朱い色が滴り落ちる。
追手は三十絡みの親爺でやした、と黒部は緑を下ろす。
他にもいやしたがね、追ってる最中に脱落したり、あたしが蹴散らしたりと、最終的にその親爺だけになったんで。
黒部の嗄れた声に、八分咲きの桜が懐かしいとでも云うように艶めく。
親爺は肩で息をしてやしたけど、あたしも血を流し過ぎやしてね、くらくらでやした。
終わるのかと思いやしたよ。
親爺の持った牛刀に七分咲きの桜から落ちた一欠け張り付いて、其れが妙に奇麗で、視界が霞んでやしたから、余計に奇麗で、追い詰められてるってぇのに、そんなモンにばっかり意識を取られやしてね、呆とする頭で、ああ終わるのか、と思いやした。
ですがね、坊ちゃん。あたしも、もうそン頃には立派な破落戸でやしたから、黙って殺られる訳にゃいきやせん。こう、腰帯から小刀なんかを取り出しやしてね、来るなら来やがれ、てね。腕ぁ顫えてやしたよ。血が抜けた所為で、力が入りやせんで。
斬りかかって来た親爺と、幾らか刃を合わせやした。普段なら、親爺如きに引けとったりはしやせんが、あン時ぁ、数戟で刀を弾かれやしてね、あたしは覚悟しやした。
短ッけぇ人生だったな、なんて考えやすと口惜しさもありやしたがね、破落戸は往生際が良くなくっちゃあいけやせん。
あたしは着物の腹ぁ、開けやしてね、さあ、殺りやがれ、と。
そン時でさ。
親爺が突然に、ぐぅ、と鳴きやしてね。
ぐぅ? と緑は訊き返す。
へぇ、喉を絞るように、ぐぅ、と鳴いて親爺は倒れやした。何が起こったのか、頭の霞んだあたしにゃ解りやせんでした。
どうやら助かったらしい、と解ったのは暫く惚けた後、音もなく男が近付いてくるのに気付いてからでやした。
男は細い黒髪を肩に垂らして、微笑ってやした。微笑った侭で、親爺の傍に寄りやしてね、何やらがさごそと手を動かしながら、童、とあたしに顔を向けやした。運が良かったな童、と。
あたしは霞む視界と頭で、桜が咲いていくのを確かに見やした。
男が云いやす。この桜は、

ああ、そうだ、と彼は思い出す。緑はあの桜は、と云ったのだ。
あの桜は、

「蕾を開かせる時に人を喰らうのだそうだよ」
上向いた緑の顎先を桜が掠めていった。
「黒部翁も、伝聞だったんですね」
「そう。黒部は多分、信じていたよ。人を喰らうとね」
だから、と黒部は云った。
「この桜に近付いちゃぁなりやせん、てね」
「云い付けはちゃんと守って下さいよ」
「もう時効だね」
薄らと笑う緑の顔が刻薄に見えて、彼は小さく喉を鳴らす。背筋を遡る予感は去らない。
「其の、男と云うのは?」
「恐らく先代だろうね」
彼は肖像でしか知らぬ先代の、緑に似た目元を思う。
「先代は何故ここに?」
「さあ」
「さあ、て、其れじゃあ物語として半端過ぎますよ」
「そうだねえ、でも其処は聞かされてないから」
「訊ねなかったんですか」
「訊ねたよ。黒部の答えは、さて、だったね。きっと、黒部と先代には黒部と先代だけの物語があるんだろうね」
僕と君のようにねと、緑は頬笑んで眼を伏せた。もうすぐ終わってしまうけれど。そう呟いた幽かな緑の声を花弁が攫う。
「緑様」
「うん」
「帰りましょう。帰って眠りましょう」
「そう、だねえ」
ことり、と緑の頚が傾ぐ。
「僕はね、喰われたいと思ってたんだ。どうせ死ぬなら桜に喰われて死にたいと」
「喰わせません」
「君、皆にちゃんと伝えておくれね。僕は桜に喰われたんだって」
「厭です、緑様」
黒部が、と緑は彼の頬に指を伸ばした。
「黒部が云ったんだ」
触れた指先は余りに冷えて、彼は熱を奪われる。

いいですか、坊ちゃん、と黒部は緑の髪に掌を置いた。
あたしは坊ちゃんより先に逝きやす。
そんなの解らないよと、洩らす緑に、黒部は屈み込んで、いいえと応える。
いいえ、必ずあたしが先に逝きやす。これだけは間違いありやせんよ。だからいいですか、坊ちゃんがくたばる時ぁ、あたしが坊ちゃんを迎えに行きやす。坊ちゃんはあたしが迎えに行くまでくたばっちゃあなりやせんよ。坊ちゃんは迎えが来るまで生きてなくちゃあなりやせん。
其れまで生きて、笑ってにゃあなりやせん。

「君、君が死ぬ時は僕が迎えに来てあげるよ」
噛み締めた彼の奥歯がぎりりと泣く。
「だから君。君は其れまで笑っていて」
どうか笑っていて、と彼の髪を梳く。
「緑――」
「黒部が居るんだ」
緑は笑んだ。蒼く、柔らかく、脆弱に。

ほこり、花が咲く。彼は桜を見上げる。風が読本の頁を捲くるように蕾が開く。
咲くな、と彼は哭いた。
刻薄な弓張り月が薄明かりに姿を消して、雲が青さを曳いて流れ出す。
良く保ったと、誰もが云う。君のお陰だと誰かが肩を叩く。彼は緑の細い髪を、そ、と整える。色を失いつつある緑の口唇は、僅かに頬笑んでいて、其れだけは良かったと彼は思う。
緑の枕頭では、現当主とその細君が泣き崩れていた。良く保った、良く生きたと、連呼している。
彼は庭に眼を遣る。
春暁の空で桜が咲き誇っていた。

了――


こんなトコまでお付き合い下さりありがとうございます。
大丈夫です、頭とケツだけ読んで頂けただけで十分です。
問題点が多すぎて言い訳もできません。
人はコレを習作、又はプロットと呼ぶのだと思います。
えー、ここから第一稿に取り掛かる訳ですが、
気が向いたらアップします。
お暇でしたらweb拍手で催促でもしてやって下さい。
今後もお付き合い頂ければ幸いです。有難う御座いました。
Written by kaito
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