遠。61-70


61:アフターヌン
きらりきらりと輝いている。
何が輝いているのか? 無論私がである。
私が立つこの庭も、私が立っているのだから当然輝いている。私の端麗な祖母が愛した夾竹桃も、可憐な母が好んだ野茉莉も、柔和な祖父が慈しんだ七竈も、厳格な父が愛でた蘭(アララギ)も、壮美で優艶で聡明な私が慈愛を注いでやまないその他諸々の草花達も、それはそれは輝いている。
私の高貴な眼差しにも劣らぬ、荘厳でありながらも穏やかな午後の陽射しが、彼等を一層煌かせている。
何と素晴らしい一時であろう。
私が彼等凡ての荘厳さを祝福しているように、彼等凡ても私の壮麗さを祝福してくれている。
馨の良い風が私の黄金色した髪を梳き、柔らかな陽が私の滑らかな頬を撫でる。私は両腕を広げ、微笑む。
さあ、凡ての賛美されたる者達よ、私を照らすが良い。存分に照らすが良い。そなた等の輝きを受け、色褪せずにいられるのは恐らく私だけである。父も母も祖父母も美しくはあったが、神々しさには欠けていた。私の此れは最早神の領域であろう。神の血を、私は美しさで犯しているのだ。
私は眼瞼を閉じる。
心地良さに暫時酔う。
私に穢された神の血は毒の如き美酒。私の葩に似た唇が快楽を帯びて僅かに顫える。
「嘻……」
くらくらと傾ぐ脳髄で芳香が一筋、螺旋を描く。
執事頭であるエロフェーイが淹れるアッサムティの芳香に魂を傾け、其の旋律を聴く。馨が濃厚になり、ミルクが零されたのだと知れる。
良い。酔っている。茶葉が、ミルクが、私に酔っている。私の放つ貴顕な気は白湯すらも蕩かせてしまう。
私は踵を軸に、美しく華麗に、宛ら月夜に舞う白薔薇のようにターンした。
エロフェーイが出しゃばらぬ微笑を私に向ける。
「午後のお茶に致しましょう、旦那様」
私はウッドデッキに据えた卓に着き、エロフェーイのティを受ける。
「良い馨だ、エロフェーイ。いつもながら私に相応しい腕前だね」
「恭悦に御座います、旦那様」
ティを一口含み、舌で愛撫する。私の愛撫にティが身悶える。私の華美な舌はティさえも顫えさせる。つくづくも私とは罪であると思う。
「旦那様、今日のお茶菓子はこのエロフェーイが旦那様の為に精魂込めてお焼きしております。どうぞご賞味下さいませ」
「ああ、それは楽しみだね。どれ、頂くとしよう」
卓の上にはサンドウィッチやビスケット、ジャム等が華麗に並べられている。取分けスコーンとマフィンが王の如くに鎮座ましましている。実に私に似つかわしい。
さて、スコーンにするかマフィンにするか、それが問題だ。



*****************
別にどっちでもええ。エロフェーイて言いたかっただけ。




62:森騒ぐ

満ちる、と思った。潮が満ちるように、時が満ちる。
開き始めた月を頭上に、森は孕みゆく時を知る。
風が流れて、又一つ、同胞(はらから)の死滅を囁く。森は嗟嘆にさざめき、揺れる。枝葉の擦れる幽かな音が欷歔に似ていた。
森は啼く。消えた同胞を想い、同胞の諦念を呑み、鎮魂を願い、森は啼く。
遥かな地に在った友よ、邂逅叶わぬ兄弟よ。今、眠れ。
其の欷き、其の憂い、其の慈愛、私が負おう。
いずれ私が滅びたなら、別の地に在る同胞が私の想いごと呑んでくれよう。
月が銀に濡れて森の同胞を弔う。森はさわざわと啼き続ける。
千歳(ちとせ)を生きた母よ、百歳(ももとせ)に足らぬ娘よ。今、叫べ。
其の悲憤、其の悲嘆、其の悲願、此処に解き放とう。
ぞわりと森が顫えた。戦慄いた風が根の間隙で小さく螺旋に舞う。
傲慢にも程がある。増長にも切りがある。森は吼える。時が満ちる。
我等に連なる者であり乍ら我等の畏怖を忘れし人よ、我等の慈恩に唾する者よ。今、限りと知れ。
利己に塗れた息吹で枯らされ、驕り高ぶった爪で抉られ、強欲を固めた牙で屠られた嗟(なげ)き、憾(うら)み、怛(かなし)み、今こそ返そう。己が仇の報いに流涕するが良い。
風よ。森は風に呼び掛ける。風よ、疾(はし)れ。天明と共に疾れ。
愚かしくも憐れに哀しき人よ。刮目せよ、花粉である。



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幸いにも発症は免れてます。何つーかスイマセン。




63:一から

其れは、気鬱に酔った曇天でも、凡てを苛む雨天でもない、捥いだばかりの果実に似て清清しく、産まれたての嬰児のように呪わしい晴天の空から墜ちて来た。
私はやるべき事もやりたい事もなく無為に過ごす人生に嫌気が差し、否、嫌気はもうずっと以前から差しているのだけれど、と同時に絶望するのにも飽いてぷらぷらと歩いていた。
平日の昼日中、それなりに大きな通りではあるが、時折車に追い越され、猫に横切られ、烏と擦れ違うだけで、行き交う人はない。其の、車と猫と烏すらも姿を消し、時と次元に見捨てられたかの如く寂寞とした寸刻、私は何故か忌々しい蒼穹を仰ぎ見た。雲の流れる様で此処が世界から切り取られ破棄された欠片でない事を確認しようとした訳ではないと思う。只、何故か上を見た。
上には小さな黒い穴があった。穴は見る間に広がり、其れが穴ではなく、落下真っ只中の何かであると気付いた刹那、私は天空の城某のパズーと同化し、心中で叫んだ。
親方、空から、

空から、力士が。


この侭では圧死してしまうと気付いてはいるが、逃げようにも何分浴衣を着た力士の背中は既に眼前に迫っており、縦しんば逃げられたとしても力士とアスファルトのドッキングは、必定、私のすぐ傍で行われる訳であり、かなりの高度と思しき場所から墜ちて来た力士がドッキングの際に惨事を極めるであろう事は想像に難くなく、又、其れに伴い私が力士を構成しているアレやコレやに塗れる事も安易に予想出来る。ならばいっそ、一緒に潰れてしまった方がマシではないか、との結論に達した私は自棄糞の現われとして力士を受け止めるべく両腕を差し出した。
衝撃に備え下半身が強張る。私は別れを告げる。さようなら悲痛ばかりの世界。さようなら辛苦だらけの人生。
力士の背と私の下膊が接する。私の時間が終わる。閉じようとする眼瞼を全霊で抑え込む。見るのだ、私は私の最期を。剥き出しの膚が力士の体温を感じ取る。
衝撃。
否。意に反して衝撃はない。
力士は、私の腕に舞い降りた。まさに、舞い降りた。私の三倍はありそうな力士が腕に乗っている。豊か過ぎる程に豊かな肉置(ししお)きであるにも関わらず、重さはなかった。羽毛のようとは良く云うが、力士の軽さに比べれば羽毛など相手にならない。一体何者か、と私は力士の顔を無遠慮に凝視する。力士は薄らと眼を開けた。愛嬌のある顔をしている。人よりも寧ろ動物に近い感じがしなくもない。
力士は私を見遣り、
「……ご……」
御前、と呟いて気を失った。こんな処に放置しておくのは何とはなしに憚られる為、私はあらゆる疑問を呑み込んで力士を持って帰る事にした。
決して面白そうだったからではない。

日本間に布団を敷き、団扇で風を送ったり、水をぶっ掛けたり、次は熱湯でもぶっかけてみようか等としている内に、力士が眼を醒ました。力士は手拭いで顔を拭きながら無礼を詫びた。
「ホント御免なさいね、受け止めて貰った上に介抱までして頂いて」
「いえ、別に」
力士が塩を所望するので小皿に盛って渡してみたが、別段嫌がる風でもないから悪い物ではないのだろう。力士は盛り塩に鼻を近付け、スカスカと嗅いでいる。塩が宜しくない粉に見えてきた。
「はー、生き返るわ。ホラ、地上の空気ってアタシ達には毒なのよね、だからお塩で一度清めないと。あ、お米でも良いんだけど」
アタシ達、と云われても困る。
「あら、そうよね、自己紹介がまだだったわよね。アタシは見たまんま、天女よ」
女(にょ)ではないだろうと思ったが放っておいた。
「名前は申し訳ないけど秘密。知られる訳にはいかないの。でも不便でしょうからエリカと呼んで頂戴。似てるでしょ?」
「そうですね」
沢尻ではなく宍戸ですね。
「処でアジャコン……エリカさん。天におわす方々は皆様、相撲をお取りに?」
「やあね、違うわよ。取るのはアタシ達一部の天女だけね」
「そうですか」
「相撲はその昔神事だったのよ」
上では、とアジャは人差し指を立てた。
「今でも神事として続いているの。アタシ達は其の為に居るのよ」
「エリカさんは神籍で?」
「末席も末席。神なんて名乗れないぐらい」
落下を目撃していなければ即座に119番通報したに違いない。そもそも持って帰ったりもしない。
「取敢えず、何故墜落なんぞ」
「落とされたのよ。取組みの稽古中、糞御前に」
糞が名称なのか侮蔑なのか解らなかったが、気にもならなかったので矢張り放っておいた。名前は知られると不味いようなので名称ではないのだろう。
「厭な奴なのよ、アイツ。今度の祭儀でアタシがトリに抜擢されたモンだから嫉妬していやがるのよ。だからって落とさなくってもいいじゃない、ねえ?」
「はあ」
「ああ、そうだ。お礼をしなくちゃね。これでも僅かばかりの通力は持ってるのよ。願いを云って頂戴。一つだけ叶えてあげるわ」
「殺して欲しい」
「早ッ。もうちょっと考えなさいよ。いや、其れより物騒すぎるわよ。誰をよ」
「私を」
アジャは少しだけ哀しそうな眼をして何故と訊いた。
「疲れた。未来も希望も可能性も金も若さもスキルもない」
「だからって何も死ななくても良いじゃない。スキルと若さは無理だけど、他は何とかしてあげられるわよ?」
私は首を振る。
「もう、本当に、心底疲れたから」
「そう。でも、御免なさい。其れは出来ないの。してはいけないの」
「なら戻してくれ。生まれる前に、私の時間を」
そうしたら私は生まれずに、流れる事を選ぶ。
アジャが肉厚な掌で私の手を包んだ。
「其れも、無理なの。時間と世界は弄れないのよ。あのね、何も時間を戻さなくても一からやり直す術はあるのよ。今からでもいいの、もう一度子供をやればいいの。そう云う治療法もあるでしょ?」
さあ、とアジャは両腕を広げ、私はアジャの肉襦袢に埋まった。
「今からアタシがアンタのママよ。存分に甘えなさい」
アジャの肉は温かく柔らかで、ほんのりと甘い香りがした。自称天女は伊達ではなかった。胸の奥で熱くなったアジャの優しさが咽喉に迫上がってくるのを感じ乍ら、私は云った。
「別の母親をお願いします」



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オチにインパクトがなくてスイマセン。段々適当になっててスイマセン。オカマキャラばっかりでスイマセン。だって使い易……。




64:懺悔

エイチさんは悩んでいた。
自分は蔑まされ過ぎではないか、と。
傍からすれば何を今更、ではあるのだけれど、エイチさんは真剣に悩んでいた。
紅葉さんと出逢ってからおよそ十年。常に吐息の掛かる距離に居た。近くに在りすぎたのかも知れない。
此処は一つ、距離を置いてみてはどうだろうかとエイチさんは考えた。
少し、例えほんの少しでも、離れてみればエイチさんが持つ比重にきっと気付く筈。気付くに違いない。気付いてくれるといいな。そう思った。
そ、とエイチさんは左隣に視線を落とす。紅葉さんはベッドに背を預け、凶器にしか見えない重厚な絵本を読んでいた。
今声をかけると怒られるから後にしようかな、と思い、否否それがいかんのだ、と首を振る。
「あのさ、紅葉、さん?」
紅葉さんが絵本から眼を上げる。
ふに、とエイチさんの口唇に触れる物があった。柔らかく、温かな、慣れ親しんだ紅葉さんの体温と吐息。
エイチさんは二度、紅葉さんの体温を呑み込む。
紅葉さんの緩んだ視線がエイチさんを捕らえる。
「何?」
「……………………………………………………………………………………………………………………何でもありません」
エイチさんは懺悔した。光を超える勢いで盛大に懺悔した。
懺悔の余り紅葉さんに抱き付き、鈍器に近い絵本の角を顳顬に喰らった挙句、非常に冷ややかな声で邪魔と言われたが、エイチさんには最早何のダメージもなかった。
エイチさんのレベルが一つ上がった。



**********
そろそろ薀蓄の事を思い出そうや。




65:少女と少女

又お前かよと彼女は云った。
灰色に廃れた街の、熟れ過ぎて崩れ墜ちそうな片隅で、私は彼女と対峙する。
エゴで腐敗した道徳と反吐で溶けた倫理を踏み付けながら、私達は互いに牽制し合っていた。
ほんの僅かな視線の揺らぎすら隙になる。
依頼主は恐らく同じ。私は気の良さそうな微笑の、けれど残忍な眸をした老婦人を思い出す。老婦人は、お嬢さんがあの人を殺してくれるのね、と柔らかな声で笑った。まだお若いのにとても良い眸をしているわ、人殺しの眸ね、と。彼女もそう云われたに違いない。
私は彼女の眸を探る。何も無い眸だった。漣すら立たない、純水で満ちた湖のような眸。
あれが人殺しの眸だろうか、私もあんな眸をしているのだろうかと思い、奇麗じゃないかと少し愉しくなる。
静かで、澄み切っていて、決して何も育まない。そう云う眸なら悪くない。
彼女の右頬が幽かに歪み、彼女が微笑う。同じ事を、考えたのかも知れない。
私と彼女はよく仕事が重なる。私達は金で誰かを潰そうとする連中の余興となっているらしい。
どちらがどちらを殺すか。どちらが先に壊れるか。狂った奴等が金を賭ける。オッズは均衡。私達はまだ、飽きられていない。
顳で生まれた汗が一つ、頬を流れていった。顎先で丸くなって墜ちる。汚れたスファルトに染みが出来た刹那、私も彼女も利き腕を上げる。二つの銃口が睨み合う。私は彼女のベレッタM92を俗物的だと揶揄し、彼女は私のコルト・パイソンを親父臭いと哂う。
「邪魔するな」
彼女の声は小柄な体躯に似合わず低い。
「お前こそ」
私の声は嗄れている。
「殺(バラ)すぞ」
「やってみろ」
暫時、視線だけの罵倒を繰り返す。トリガーに掛かった指は動かない。互いの殺気に僅か含まれる諦念と憐憫が私と彼女を繋いでいる。
唸るような音を立て、路地を隔てた大通に一台の外車が停まった。私と彼女の眸が動く。自身の与り知らぬ処で命を売買された壮年の男が車から降りる。私達は音も無くその男に標準を合わせ、トリガーを引く。私の弾が左眸を、彼女の弾が右眸を撃ち抜く。男が倒れるよりも早く私達は踵を返した。背を向けた侭、彼女が別れの言葉を棄てて行く。
「次会うまでに墓穴掘っとけよ」
ああ、と私は応える。
「掘っておくよ、お前のを」
彼女が私を睥睨し、瞬間、視線が交じる。私達は知っている。
次に何処かで会ったとしても、私達はトリガーを引いたりしない。私は彼女を殺さないし、彼女も私を殺さない。依頼があるまでは、殺さない。
私が彼女の、彼女が私の殺しを請け負った時、私にとっても彼女にとっても其れが最期の仕事になる。




**************
何てチープな。



66:ボーダー

冷えた水が一滴、胸を伝うような気配に左市は顔を上げた。
窓辺に寄り、苔色のカーテンを少し開ける。通りを挟んだ向かいに建つマンションの一階上、片割れの部屋は芥子色のカーテンで閉ざされていた。
何か、と左市は思う。何かあったのか。
自分の物ではない僅かな驚愕とささやかな焦燥、じりりと染みて広がる悲哀。
ああ、そうか、と左市は薄く息を吐く。
逝ったのか。
夜が明けようとしていた。

近すぎる。それ故に感覚を共有してしまう。厄介だと感じた事は、多分ない。分離してしまったもう半分の自分と、確かに繋がっているのだと信じられる。自分達は間違いなく一つなのだと思える。
左市はコンロに火を点け、茸を炙る。
片割れとの境界は曖昧だった。元々一つの卵だったのだと知った時から、一層曖昧になった。次第に誰も見分けられなくなり、自分達ですら違いを見失った。片割れは、自分の名と左市の名を呼び、ボクはどちら、と訊いた。
ボクは――。
ちりちりと、茸から水分が抜けてゆく。
どちらでも良かった。どちらでも同じだと思っていた。もしも何処かで片割れが死んでいたら、自分は片割れとして生きていたかも知れない。今でもそうかと問われれば、逡巡し、解らないと応える。今でも自分は片割れに、朋右になれるだろうか。ならなくて良いと、少しだけ厭な顔をして朋右は云うだろう。
朋右は差異を求めている。そんな気がする。
炙った茸に黒胡椒を挽き、柚子は朋右の為に、レモンは自分の為に添えた。
左市はダイニングに置かれたガラステーブルに皿を並べる。ブラックオリーブの梅紫蘇和え、海老のマリネ、湯煎トマトのオリーブオイル掛け、豆と味噌のディップ、スライスしたバゲットは軽く焼いてある。
ダイニングに這入り込んだ暁光がテーブルを白く照らす。五時が近い。そろそろかと、塩揉みし粒マスタードで和えたキャベツの皿を置いた。かたりと音がする。呼び鈴が鳴る。いらっしゃい、と左市は静かに頬笑む。
「待ってたわ、朋右」
朋右は幾つもの酒壜を抱えて昏く笑んだ。
「死んだの。宴を開くわよ」
ええ、と左市が首肯する。
「付き合うわ」
違いなど殆ど無かった。無くていいと思っていた。ずっと一緒なのだと、一つなのだと疑わなかった。
朋右がテーブルに眼を遣り、地味ね、と云った。
「アンタね、早朝なのよ? 派手な料理なんてできないわよ。それに」
――呑むのでしょう? 唯只管に。
「彩の話よ」
「赤、黒、緑、充分じゃない」
「黄色が欲しいわね」
「マスタードがあるわよ」
「濁ってるじゃない。もっと狂った太陽みたいなのがいいの」
「待ってなさい、今パプリカ出してやるから」
左市は野菜室から取り出したパプリカを投げる。
「朋右」
「何よ」
「泣きなさいよ」
「厭よ」
「どうして」
「何でアタシが犬ッコロの為に泣かなきゃならないのよ」
「死ぬと解ってたのに連れて帰ったじゃない」
「死ぬと解ってたから連れて帰ったのよ」
朋右はパプリカを齧り、壜の侭ワインを呷った。
「朋右、グラス」
「要らないわ」
壜を突き付けられる。
「アンタも呑みなさいよ」
「呑むわよ」
受け取った壜に口をつける。安いテーブルワインは、酸化した果汁の味がした。
「半年前だったかしら?」
朋右が死に損なっていた犬を連れて帰ったのは。
「七ヶ月と十日よ。四、五日でくたばると思ったのに、結構しぶとかったわね」
あの犬。
朋右の指がブラックオリーブを摘む。噛み砕いて嚥下する。強い酒を咽喉に流す。朋右は其れを繰り返している。少しずつ、室温が上がっていく。ざわりと、空気が揺れ始める。白かった光が淡く色づく。目醒め出したわね、と朋右が呟いた。
「何?」
「街が」
ああ、そうね、と左市は曖昧に頷いた。
「目醒めるのよ。目醒める時間なのよ」
揺曳する朋右の視線の先でバゲットにディップが塗られる。爪に零れる。爪の上を流れてテーブルに落ちる。ほとり。落ちた味噌が陽光を受けて煌く。
「朝なのにね」
左市は朋右を見る。何を云っているのかは解らなくても、何が云いたいのかは解る。
あの犬。ドイツ語の名を貰ったあの犬。自分達を見分けたあの犬。あの犬はもう眼を開けない。幾度朝が来ようと眼を醒ましはしない。自分達を見分けはしない。其れでいいじゃないかと思う。一つだったのだから。同じなのだから。了君だけは何故か見分けるけれど、違いなど、ないのだから。アタシとアナタで一人だったのだから。
テーブルの料理は余り減らずに、酒の壜だけが空いていく。
「了君だけになったわね」
アタシ達を見分けられる相手。
そうね、と応えて朋右が億劫そうにバゲットを齧る。
厭なのね、と左市は思う。アナタはアナタで在りたいのね。当然と云えば当然なのかも知れない。ずっと繋いでいた手を、そ、と解かれた。そんな気がする。
「了君が」
左市は試すように声を落とす。
「了君がいなくなったら、アタシ達、また境界を見失ってしまうのかしら」
朋右は凝っと左市の眼を見据え、いいえ、と云った。
「いいえ。見失わないわ」
朋右が落ちた味噌を摘みあげた。
「アタシはもう、見失ったりしないわ」
「そう」
そうねと、左市は笑んだ。朋右の指先で味噌が双つに割れた。




*****************
はいはい糞駄文糞駄文。
これ書いてて思い出しました。左市の家、庭なかったか……?(参照14:花に酒 月に蜜)……あれ実家です、うん。
関連お題・・10:酒と涙と○と○ 14:花に酒 月に蜜 28:踊る 32:生誕祭 60:オモイ



67:商売

「大恐慌だとよ。不景気どころの話じゃねえな」
「だな。サラリーは危険らしいし、俺さ、思い切って事業主にでもなろうかと思ってるんだ。デリバリーコスプレ(ヲタ系)略してデリコス、どうだ、いける気がしないか」
「しねえよ」
「セバスチャン(執事)とか刹那(ガンダム)とかロロ(雑巾)とかスグル(肉)とかが家に来るんだぞ!!!」
そっちかよ。


男装腐女しかいない予感。
************
相変わらずオチが弱い。



68:枕頭の花

椿をお願い。
真っ赤な椿が良いわ。
滴るような紅の椿を一枝、窓の傍にある一輪挿しに入れて持って来て頂戴。
そう、其れよ。不細工な花瓶でしょう。良いのよ、気なんか使わなくったって。誰が見たって巧くない出来だもの。
あら、駄目よ。思ってもない事なんか口にするもんじゃないわ。
本当に? 嬉しいわ。繊細だなんて言って呉れた人、誰もいなかったもの。其れね、あたしが焼いたのよ。一度だけ、姉さん、貴女のお母さんに教わってね。
あたし、姉さんと同じ事は絶対にやらなかったわ。服だって、姉さんが白を着るならあたしは黒を着た。
比べられるのが、酷く厭だった。褒められるのは決まって姉さん。色の白い別嬪さんだこと、お人形さんみたいね、何をやらせても上手、器用だわ、繊細ね。そんな言葉は全部姉さんに向けられたわ。そしてね、皆あたしを見てこう云うの。
それに比べて。
ずっと、そう。いつも其れ。あたしの頭の上にはいつもその言葉があった。
だからあたしは、姉さんが好きな物は嫌った。姉さんの傍には近寄らなかった。あたしが好きな物を姉さんも好きだと知った時は、あたしの方が先だったのにといじけた。それから嫌いになるよう努めた。
色んな物を諦めて、一杯泣いたわ。
凡ては己の卑しさの所為だと今でこそ解ってはいるけど、当時は本当に、悔しかった。
でもね、たった一度だけ、姉さんと一緒に土を焼いた事がるのよ。
何故だかは忘れてしまったわ。多分、親類の集まりだか何だかがあって、邪魔な子供のあたしを少し大人な姉さんに押し付けたのだと思う。
あたしは当然、一人で大人しくしてるからと姉さんから逃げようとしたのよ。姉さんは許してくれなかった。あたしの手を確り握って、土を焼いてみないかと云ったわ。首を横に振るあたしを、姉さんは工房へ引き摺って行った。そう、庭にある工房よ。お祖父様の、貴女にとっては曽祖父様の工房ね。
あたし、土を焼く気なんてさらさらなかったのよ。なのにね、土を捏ねてる姉さん見てると、何だか凄く楽しそうでね、つい、つられてしまったのね。上手く出来なくて癇癪起こすあたしに、姉さんは根気良く付き合ってくれたわ。幾つか出来た皿や鉢をお祖父様に頼んで焼いて貰ってね。お祖父様は焼き上がりを見て、姉さんに云ったわ。まだまだ未熟だ、って。其れから、あたしにはこう云った。始めてにしては上出来だ。
どうしてかしらね、あたし、凄く厭な気分になってね、焼き上がった自分の品を片っ端から壊していったのよ。庭にあった赤ん坊の頭程の石まで持って来てね、粉々にしたわ。
姉さんには見込みがあるから辛い事を云うんだわ、でもあたしは全然駄目だから当たり障りなく褒めておいたんだわ、そう思ったのかも知れないわね。
全部壊したつもりだったのに、姉さんたらこっそり一つ取ってあったのよ。そりゃあ、吃驚したわね。どうして、って訊いたら、だって勿体ないじゃない、そう云って姉さんは笑ったわ。


ああ、有難う。枕元に置いて頂戴。
良い椿だわ。今年も奇麗に咲いたのね。
ええ、そうね。椿は、好きよ。昔から一番好きな花だわ。庭の隅でこっそり育ててた事もあるのよ。
だって、だって本当に好きなのだもの。誰かに知られたら、貴女、困るじゃない。もし誰かに、お姉さんもその花好きなのよなんて云われて御覧なさいよ。あたしは椿を嫌わなくちゃならなくなる。
いいえ、違うわ。姉さんは椿が好きよ。
義兄さんがまだ婚約者だった頃にね、姉さんへのお土産に義兄さんは簪を持って来たの。椿のね。
姉さんは一瞬だけとても嬉しそうな顔をした後、悲しげに笑って云ったわ。有難う、でも御免なさい、私椿は嫌いなんです。
違うのよ。姉さんは知ってたのね。あたしが、姉さんと同じ物は決して好もうとしない事を。内緒で椿を育てていた事を。
義兄さんはまず困惑してから、あたしに気付いて納得した顔をしたのよ。
彼等の優しさだったと、解ってはいたわ。其れでも、だからこそ、あたしは傷付いた。
傷付いて、椿の世話をやめた。八つ当たりしたのね、椿に。
何ヶ月かして、あたし、椿を植えてた場処へ行ったの。残骸ぐらいはキチンと片そう、せめて弔うぐらいはしよう、そう思ってね。枯れて無残に朽ち果てた椿の姿を覚悟したわ。でもねえ。そう、その通りよ。
椿、咲いてたのよねえ。そりゃあ、もう、立派に、美しく。
何故、と思うまでもなかったわね。だって、其処に居たんですもの。姉さんと義兄さんが。
姉さんはね、やっぱり笑って云ったわ。勿体ないじゃない、貴女の椿、こんなに奇麗に咲くのだから。
義兄さんまで、君の咲かせたこの椿は好きだよ、なんて云ってくれてね。
優しかった。優しすぎたのよ。残酷なまでに。
ねえ、貴女。憶えておいて。優しさには毒があるの。
あたしはね、泣いたわ。その場で、大声で。
憎ませてさえくれない彼等が憎かった。
彼等の云う、其の椿は、もうあたしの椿じゃない。
姉さんが手を出した時点で姉さんの椿なのよ。
あたしの椿より鮮やかに咲いた姉さんの椿を見ながら思ったわ。此処には居られない。
其れでね、あたしは家を出た。
あたし達は二人姉妹で、三男坊の義兄さんの婿入りは決まってたから、遅かれ早かれ家を出る事にはなったでしょうけど。
あたしが家を出てから五年程して貴女が産まれた。
きっと其の頃だわ、姉さんはあの人に再会したのよ。
昔、家の近くに住んでいた学生の、あの人。何処の学生さんだったかしら。駄目ね、もう名前すら思い出せない。
そうね。あたしは子供だったからほんの小さな、只の憧れだったけど、そう、姉さんは違ったのかも知れないわね。姉さんは、時折あの人と会っていたわ。
何もないの。只、時々懐かしい話をしてるだけ。本当に何もないの。だから、お願い。黙っていて。
偶然、姉さん達を見かけてしまったあたしに、姉さんはそう云って頭を垂れたわ。
なかったと思うの。本当に、何も。あの人にも家族があったし、姉さんは多分、何よりも先に貴女の事を考えるに違いないもの。
だから、深くは考えなかった。忘れるわ、と姉さんに応えた。見苦しい言い訳だけれど、あたしにもあたしの人生があったしね。
姉さんとあの人の事を本当にすっかり忘れ去った頃、義兄さんがあたしを訪ねて来た。義兄さんはあたしの部屋の薄汚い畳に額を擦りつけて云ったわ。
知りたいだけなんだ。教えて呉れないか。
驚いたし、困惑したわ。入婿とは云え、当主があたしみたいな小娘に頭まで下げてる姿は、正直に云ってしまえば、小気味良かったけれど、断りも、誤魔化しもさせない威圧感があった。其れでも、云って良いものか、随分と悩んだのよ。悩んで、あたしは姉さん達を信じる事にしたの。姉さんが貴女に寂しい思いをさせる訳がない、義兄さんが貴女に悲しい思いをさせる筈がない。大きな問題は、ない。
とんだ奇麗事だわね。姉さんに仕返しする好機だと、微塵も思わなかったと云えばきっと嘘になる。
あたしは、凡て話した。聞き終えた義兄さんは、有難うと頬笑んで帰っていった。
其の三日後よ。姉さん達を乗せた車が事故に遭ったのは。
いいえ、間違いなく事故よ。ブレーキを踏んだ痕も、ハンドルを切った跡もあったと聞いてるわ。
只、運転していた義兄さんの安定を欠く大きな要因となったのが、あたしの話であるのは疑いようがないの。
だから。
だから、あたしなの。貴女から両親を奪ったのも、姉さん達から貴女を奪ったのも、あたしなの。
いいの、貴女はあたしに感謝なんてしなくていいの。する必要は、全然ないの。あたしは罪滅ぼしに貴女を利用しただけなのよ。貴女を通してずっと赦しを請うていたの。
あたしね、謝りたいの。ちゃんと、姉さん達に謝りたいの。赦して呉れとは云わないから。
せめて。せめて謝らせて欲しいのよ。



叔母はそう呟いた後、静かに逝った。
枕頭の椿が優しげに叔母を見下ろしていた。




****************
最後の二行、残そうか消そうか悩んでます。
どっちでも不出来なのは一緒ですがね。



69:呪い

百合が咲いている。
西日で紅く染まった美術室に真っ白い鉢植えの百合。
あたしはスケッチブックを立て掛けている彼女に、コレ描くのと訊いた。
「描かないよ、私は」
一年生が描くんじゃないかな、と彼女が髪を掻き上げる。黒くて細い彼女の髪が、指の間からさらさらと流れて落ちる。あたしは彼女が羨ましい。
彼女の顔は小さい。彼女の膚は白い。眼は杏型で大きい。口唇は淡く朱い。白いセーラー服に零れる黒髪は妖しい色を放つ。躰は華奢で、力を篭めて抱けば砕けてしまいそうな雰囲気がある。
あたしとは違う。全く違う。何も彼もが違う。
「そこ、座って」
イーゼルの前に置かれた小さな椅子を彼女は指差した。細くて奇麗な指が鉛筆を挟む。
「楽にしててくれていいよ」
うん、と頷いてあたしは腰掛けた。彼女がじっとあたしを見る。あたしは気恥ずかしくなって、彼女に声をかける。
「ねえ」
「何」
「ホントにいいの?」
「何が」
「モデル。あたしで」
「いいよ。何で」
いや、だって、とあたしはスカートの裾を弄る。答えに詰まると服の裾を弄るのはあたしの癖だ。
裾から出た膝に、青痣があった。何処でぶつけたのか、まるで憶えていない。イヤらしく盗み見た彼女の脚は、つるりと白くて、ビスクドールを思い出させる。彼女の脚に比べてあたしの足は何て幼稚なのだろう。
「だって、さ、卒業制作なんでしょ」
「そうだよ」
かし、と鉛筆が紙を引っ掻く。
「だったらさ、こう、もうちょっとキレイっていうか、華のある子のがいいんじゃない?」
例えば、彼女自身とか。かしかしと、鉛筆が動く。
あたしは平凡な、いや、もしかすると平凡以下な只の中学生で、絵にして見栄えのするモノじゃない。描かせてよと言われて何も考えずにはしゃいだ自分を今は恥じたい。
彼女に応える素振りはなく、朱唇は一直線に結ばれている。あたしは少し焦る。嫌われたかな、と思う。
何故だかあたしは彼女に軽蔑されたくないと思っている。彼女に侮蔑されるのを恐れてると言ってもいい。
「あ、あたし、良く解んないけど、卒業制作って受験とかに関わってくるんじゃないの?」
「大丈夫」
彼女は感情のない声で言った。
「そうなの?」
「美術科行かないからね」
「え? な、何で? 絵、描くの好きなんだよね?」
「好きだよ。好きだから行かない」
彼女がスケッチブックを持ち上げてページを捲る。かたり。かさり。かたり。 「ご、ごめん、解んない」
「そう?」
彼女は幽かに笑んで、鉛筆を持ち直す。行かない理由を説明してくれる気はないらしかった。西日は更に伸びて紅さを増していた。
「沢本」
「あ、な、何」
「力抜いてよ」
「あ」
自分でも気付かない程にあたしは緊張していた。腕が突っ張っている。ことりと彼女が微笑う。
「ホント、楽にしてくれていいから。動いてくれてもいいし」
「あ、うん」
そう言われてもあたしの腕から力は抜けない。あたしは深呼吸する事にした。深く息を吸う。
「あのさ、沢本」
「うん」
「沢本奇麗だよ」
「は?」
呼気と共に思わず脱力した。
「華は、うん、目立たないかも知れないけど、でも奇麗だよ」
「何、ですと?」
くつくつ、と彼女の肩が揺れている。彼女は笑っていた。満足した猫みたいに、眼を細めて。
「力、抜けたね」
「ああ」
最後に残った力も抜けて行った。
「お陰さまで、抜けました」
そりゃそうだと、あたしは思う。彼女が、いや、彼女でなくても、あんな事を本気で言う筈がない。
彼女はまだ笑っている。笑いながら、言った。
「本気だよ」
いいよ、もう、とあたしも苦笑する。
「本気で、そう思ってるよ、沢本」
「いいって。ありがと」
「本気で思ってなきゃモデル頼んだりしないよ」
くすぐったいような笑顔とは裏腹に彼女の声はあまりにも真面目で、あたしは少し戸惑った。
「あ、あー、そうなんだ?」
やっぱり? と洒落で誤魔化そうとしたけれど、出来なかった。あたしにそんなふてぶてしさはなかったらしい。代わりに、何でと訊いた。
「何であたしなの」
「描きたかったから」
「だから、何で」
「聞きたい? 聞いたら呪われるよ」
「何、それ」
あたしはからからと笑う。彼女は僅かに悲哀を含んで笑う。
「ねえ、どんな呪い?」
「ついつい私を意識してしまう呪い」
「何だ、そんな呪いなら歓迎」
普段と大して変わらない気がする。
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ、呪ってあげる」
「遠慮せずどうぞ」
「私、沢本好きなんだよね」
「うん?」
あたしは笑顔を貼り付けた侭、首を傾げた。
「それは」
何て光栄な。
「え、と、あたしも好きだよ?」
彼女が首を振る。
「私と沢本の好きは違うと思う」
彼女の視線が床に落ちる。
「独占したかったんだよね。せめてキャンパスの上でだけでも。描いてる間は、一緒にいられるしね」
あ、と呟いてあたしの咽喉は固まった。
彼女がとても寂しげに笑う。
「呪われたっしょ」
確かに。はっきりと、あたしは呪われた。
あたしは腰を上げる。何をしようとしているのか、あたし自身にも解らない。ありがとうと言って、あたしは一歩踏み出した。
半ば沈んだ陽が、白百合を紅く染めていた。




****************
そういやあ百合ねえなあ、と思ったもので。まんま百合。
呪いへの持っていき方は無理すぎると自覚してます。



70:町

避難命令は無視した。
この町から、離れたくなかった。

亀裂のような細い路地に身を潜めている。
枯れた腕で膝を抱き、背を丸める。そうして、古びたスナックの看板が生み出す影に同化する。
表通りでは三人一組の隊員達が駆け巡っていた。
ご苦労な事だ、と膝を抱えた老人は思う。
彼等は未だ町に留まる住人を、主に年老いた住人を探しているのだろう。逃げろと云われてはいそうですかと即座に避難できる年寄りは以外に少ない。逃げたくとも腰が立たない。膝が痛い。警報が聞こえない。そもそも逃げる気がない。此処で死ぬと決意し仏壇の前に座り込む。そんな年寄り達が隊員に抱えられ、亀裂の前を横切って行った。
隊員の背で申し訳ないと繰り返す老爺。隊員の腕で念仏を唱え続ける老婆。放せ、放っておけ、オレの自由だと喚く婆なのか爺なのか解らない年寄り。
早く往け。
老人は小豆色したジャージの袖を握り、通りを睥睨する。

風情のある町だと、先輩の後ろを駆けながら青年は思った。
建物は低く横並びで、年季の入った屋根瓦はてらてらと黒光りしている。数歩毎に電柱が立ち、見上げた空には無数の黒いノイズが走り、眼を向けた薄暗い路地には旧型の室外機が重なるように据えられ、そこかしこに地蔵が居る。生まれた街とは異なる町に、青年は郷愁を憶えた。
以前は何処もがこんな町だったのだろう。夕刻、通りには其々の家庭から其々の夕餉が匂い、子供は奇声に近い声で仲間を呼ばわりつつ家路を辿る。途中で近隣の小母さん達と出会い、惣菜のお裾分けを受け取る。
そんな世界を、こんな時代に、この町は保っている。否。保っていた。
もうすぐ種が降る。

種はアトランダムで出現する。
政府やマスメディアは「降る」と云うが、実際に空から降ってくる訳ではないらしい。それ以上の事は知らない。
老人は通りを窺い、そろりと立ち上がった。関節が噎び泣く。
警報が出た早朝、老人は庭に居た。裸足で土を踏み、陽が昇るのを眺める。日課だった。かつては祖父の、それから母の、日課だった。母が居て、祖父が居た。兄と妹も居た。父は居なかったが代わりに犬が居た。とても頭の良い犬だった。骨は庭に埋めた。使っていた首輪は今も文箱に保管されている。酷く好きだった。
関節が泣き止むのを待って老人は通りに出る。
莫としていた。
便所サンダルが触れた其処から、静寂が波紋に広がる。
ああ、誰もいないのだなと、老人は独りごちる。寂寞とした高揚感が臍の辺りから沁みてきて、思わず背を反らせ呻った。屋根を走る黒猫が見えた。尾の先だけが白い。

彼女で恐らく最後だと報告が入った。
先輩が背負った小柄な老婆は避難の最中に扱けて足首を痛めたのだと云う。
退却、ともう一人の先輩が手振りだけで示す。青年はそれに頷き、駆け出した。見納めにと青年は視線を遊ばせる。室外機の上に黒猫が見えた。尾の先だけが白い。

老人は庭に立つ。
家に帰り着くまで誰にも会わなかった。避難する振りをして一旦家を出たのは正解だったなと思い、北叟笑む。
祖父が死んで、母も死んで、兄は消えて、妹が嫁いだ後、老人は近所に住む幼馴染を娶った。少しばかり薹の立った新妻ではあったけれど、気心が知れていたし、これと云って不満はなかった。
その内に一人息子が生まれ、巣立ち、嫁を貰い、孫が出来た。老人が愛用している小豆色のジャージは孫が中学で使っていた物だ。
盆と暮れの帰省は、孫が成長するに従い間遠になった。偶には帰って来い、俺はそろそろくたばるぞ、と息子を半ば脅している間に連れ合いを亡くした。気付けば祖父の歳を越えていた。
老人は意味も無く、嗚、と声を洩らす。空を仰ぎ、折角だしな、と呟く。
何が折角なのかは解らなかったが、老人は屋根に上がる事にした。

町が赤いバリケードで封鎖されていく。
バリケードの側で、其の女は猫が、と喚いていた。
隊員にしがみ付き、猫が、うちのコがいないの、きっと町の中だわ、と訴える。
どんな猫ですかと隊員が訊き、黒猫で尻尾の先だけが白いのと女は叫んだ。
自分、と青年は声を上げる。
自分、その猫見ました。まだ目撃地周辺に居るかも知れません。自分が捜してきます。
猫は子供の頃から好きだった。
青年は上官の制止も聞かず、バリケードを超えた。

屋根に上がったからと云って感動する景色が見えたりはしない。
空は晴れて蒼いが無数の電線で罅割れているし、近隣の草臥れた瓦の向こうでは薄汚れたビルが視界を塞いでいる。
それでもこの町は、老人が生きた町だった。この町で産まれて、生きて、死ぬ。
警報が響いて、俄かに湧く寂寞とした怕れから老人は下を見た。

猫は居たが、手を伸ばすと逃げられた。
猫を追って幾つかの路地を抜ける。古い、けれど渋みのある一軒の家の前で漸う捕縛した。
猫を抱き上げるのと同時に警報が鳴り、青年は思わず上を見た。

家の前で防塵マスクを付けた若者が猫を抱えていた。

屋根の上でジャージに便所サンダルの年寄りが仁王立ちしていた。

「何をしている」
老人と青年の声が重なる。

「アンタ、アンタ何してる。早く往け」
「アナタこそ、何をしているんです。早く避難してください」
老人が呶鳴り、青年も呶鳴る。
「俺はもういい。さっさと往け」
「よくありません。其処から降りて自分と来てください」
「俺に構ってくれるな」
「強制執行する事もできるんですよ」
警報が鳴り止み、衝撃に町が揺れた。
「種か」
「着弾した」
早く、と再度老人と青年の声が重なる。
「しつこいぞ小僧」
「自分には命を護る義務があります」
青年の腰辺りからざらついた音声が流れ出し、青年の退避を促す。
老人は鬱陶しげに手を振った。
「往ってくれ」
「出来ません」
「アンタと押し問答やる気はない」
「自分もです」
老人が舌打ちする。二度(ふたたび)町が揺れた。顫動が始まった、と青年が叫ぶ。めしり、と厭な音がしてアスファルトが盛り上がり、割れる。
「お願いです」
青年は泣きそうな声で老人を呼んだ。老人は首を振る。割れたアスファルトから根が這い出てくる。骨の軋むような音を立てて樹木が伸びる。枝が屋根を突き破った。そこかしこに樹が生える。
「降りてください」
老人は伸び急ぐ幹に掴まり、残った生の凡てを乗せ怒声を発した。
「猫もろとも死ぬ気か」
青年は寸時老人を凝視め、走り出した。老人の足を枝が捉え、老人は枝と共に空を昇る。

崩れる町を見遣り、老人は笑った。この町で産まれ、生き、この町と死ぬ。

バリケードの内側で町が濃緑の森に成っていく。
青年が猫を女に手渡している頃、老人は翠の中を落下していた。



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あー、こりゃ酷ぇ。どうか生温い嘲笑の後で大目に見てください。






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